UZU・UZUインタビュー16-4

ゴドーを待ちながら

世紀を超え今なお語り継がれる名作、 ゴドー。
芝居という表現世界を巡り二人の演劇人が
ゆっくりと力強く語って くれました。


串田 和美 (くしだかずよし)
(2001.6.30 インタビュー)

串田 和美(KAZUYOSHI KUSHIDA)インタビュー

役者として演出家として長いキャリアを持ち、高い評価を受けている串田和美が、緒形拳とのコンビで、近代演劇の最大の問題作「ゴドーを待ちながら」を引っさげて東北・北海道を縦断。2001年6月30日、7月1日にえずこホールで公演しました。公演の合間を縫って、串田さんに、演劇について、演出について、ゴドーについてお話を伺いました。

どんな風に
人と空間を共有するか、
気が付いたらずっと
こだわってきたんだなあ・・・。


Q:串田さんは1966年に自由劇場を旗揚げしたわけなんですが、その旗揚げのメンバーが錚々たる人たちで、しかもこのころ、状況劇場、代々木小劇場、早稲田小劇場、六月劇場、そして天井桟敷と、相次いで小劇場が旗揚げしています。この時期というのは日本演劇界にとって、大きなタ−ニングポイントの時期であったと思うのですが、串田さんは、そのころの空気をどのように感じ、どんなことをを考えてらっしゃいましたか。

高校三年のときに60年安保があって、僕は積極的に関わらなかったのだけれど、僕たちのすぐ上の世代の唐十郎さんや鈴木忠志さんたちが、学生運動、演劇活動に積極的に取り組んでいて、いろんな形で横の繋がりもあって、それが新しい演劇づくりに影響を与えたかなと思っています。ちょうどそのころ、僕は俳優座の養成所に入ったばかりで、新しい空気が動き出したかなという時期で、それまで憧れていた新劇の俳優さんたちとは、違う気配が出始めた時期でもありました。僕たちは、先輩たちのやり方、例えばテレビやラジオに出て貯めたお金でホールを借りて演劇を上演して、終わったらまた働いてお金を貯めるというようなやり方に少しずつ疑問をもち始めていて、教室とか小さいとこでもお芝居かできるっていう実験をしたりしてました。
それで養成所終了後、劇団をつくろうっていう話もあったんですが、人数も少なかったし、もう少し勉強してからと思って、まず文学座に入って、3〜4年後に旗揚げしようと思っていたんですが、俳優座養成所の僕たちの次の卒業生、地井武男とか村井国夫とかが卒業式のときに名前まで出して劇団をつくるって発表しちゃったんです。それでもうやらなくちゃならない状況になって、それで気が付いたらそのころ唐さんも旗揚げしていたという状況でした。
それから、劇場兼稽古場になるところを何ヵ月も探して、やっと見つけたところがたまたま地下室だったので「アンダーグラウンド自由劇場」という名前をつけました。たまたまその後に「アンダーグラウンド蠍座」というのが出来て、アンダーグラウンド活動という意味も含めて、アングラとひと括りに呼ばれるようになったんです。それで、最初は自分たちでアンダーグラウンドを標榜していたんですが、ひと括りにされるとなんとなく抵抗を感じたりしてましたね。



Q:旗揚げ公演の「イスメネ地下鉄」の公演チラシに「新鮮な失敗を続けたい」ということを書かれてるんですが、どんな気持ちで書かれたんでしょうか。

とにかく前例がないしどうなるか分からないので、半分自分たちを励ましながら、きっと失敗はいっぱいするだろうけど、どうせするなら新鮮な失敗をいっぱいしたいなと思ったんでしょうね。

Q:それから自転車操業的にたくさんの作品に取り組まれ、70年に一つの転機、自由劇場と黒テントに分かれるという、大きな再編があったわけですが、そのへんにはどんな事情があったのでしょうか。

そうですね。70年というのは、ベトナム戦争の時代で、全員長髪。短いのがおかしいくらい、なんとなく全体がヒッピーみたいで、最初の黒テントはそんな感じでしたね。まあ、動いて芝居するのもいいんだけれど、僕はやっぱり一つの街に拠点があってそこでちゃんと作ってそれから移動するっていうのがいいかなって思ってたんですね。
Q:それで、ここから第2期自由劇場といっていいかと思うのですが、串田さんが、あくまでも六本木の小屋のこだわったのはどんな理由だったのでしょうか。
あそこは何にもないところですが、逆に何にもないから何でも出来る。何でもありということでいろんなことをやってきました。それで、小屋を壊すときに思ったんですが、文学座にはちょっといましたけど、あとはずっと自分と仲間でやってきたので、怒ってくれる先輩とか師匠みたいな人がいなかったんですね。それで、僕が演劇を教わったのはあの空間なんだなあってつくづく思いましたね。

Q:演出についてですが、串田さんはどちらかというと、役者をやりたくて、しかし、満足できる演出家ががいなかったので自ら演出を手がけるようになったということを聞いたのですがそうなのでしょうか。

満足できる演出家がいなかったというわけじゃないんですが(笑)、スタッフがいないというか、周りが若い連中ばっかりで、自分がやるしかないという状況でした。だから制作とかいろんなこともある程度やりました。


Q:そして79年に「上海バンスキング」の初演。これが爆発的なヒットととなるわけなんですが、もちろん内容も素晴らしかったんですが、驚いたのは役者がきちんと楽器を演奏するということ。これはとても大変なことで、しかも楽器をぜんぜん弾いたことがない人も多かったと聞いたのですが、吹き替えではなく役者が楽器を演奏することに串田さんなりのこだわりがあったのでしょうか。

バンスキングの前に、ギター弾いたり音楽を混ぜながら舞台を創ったりしたことがあって、バンスキングで突然音楽を入れたわけではないんです。まあ、吹き替えをするお金がなかったし、お金持ちだったら多分楽団雇ってたと思う。ミュージシャン雇うお金がない。でも生の音楽はほしい。じゃあ自分たちでやろうっていう感じかな。69年にベルリンへ行ったとき、ブレヒトの「三文オペラ」とか見たんですが、脇のカーテンがショッと開いて、おじいさんとか若造とかが演奏を始めて、それに合わせて役者が歌いだす。かっこいいなって思いましたね。現在の状況で演劇を始めてたら楽団雇ってたと思いますね。
あとは、劇団が分かれて最初のころは若い研究生みたいな連中を集めてやってたんだけど、ふらふらしてるような連中ですから、普通の演劇の教育なんかしたって皆やんなって帰っていく。明日も来たいって思わせるためには、なだめたりすかしたり、音楽とか漫才とかをやったりする必要があったんですね。そのころがお笑いとかがお芝居に入ってきた最初ですね。佐藤B作が東京ボードビルショーをやったり…。楽器は、最初はパーカッションとか簡単で好きな楽器から始めて、それからだんだん難しい楽器をやるようになりましたね。

Q:「上海バンスキング」は94年まで9回再演。第14回紀伊国屋演劇賞、第24回岸田戯曲賞(斎藤隣)を受賞。81年には自由劇場オリジナルバンドがオールドボーイズオールスターズと共演したり、吉田日出子さんが、ホテル・ニューオータニでショーを行なったり、演劇が大きな広がりをもって一つの現象のようになったのかなと思うのですが、串田さんはそういった広がりについてはどのように考えられていましたか。

一方では、なんとなくまともな新劇を学んできたけど、もう一方では俳優学校のころから佐藤信とミュージックホールへ行ったり、日劇のストリップ劇場へ行ったり、もうちょっと猥雑なところにいろんなものがあるんじゃないかなと思ってましたね。ベルリンのキャバレーとか、ブレヒトは最初はこうだとか、ベテキントだってキャバレーの中から育ったとかっていうのを聞くと、「へーやっぱりそうだよな」とかだんだん興味をもつようになって、結局大元はいろんなものが混ざってるんじゃないかなって思いますね。パーティがお芝居になっていたり、演劇的な演奏会があったり。そういうことがたくさんあっていいんじゃないかなと思います。

Q:演出についてですが、安部公房の作品。それから、勘九郎さんの中村座やコクーン歌舞伎と。古典から前衛まで、演出される分野も幅広く、評価も高いのですが、「劇場は熱くなくてはいけない」という言葉のとおり、舞台の空気感、新鮮な息づかいなどをとても大切にされているように思えるのですが、どんなところに気を使い、何にこだわって演出されてますか。

古典から前衛まで、言われてみるとそうなんですけど(笑)、意識したたことはなくて、目の前にあるやりたいことをやってるだけなんですが、ただどんな場所でやるかということにはこだわりますね。どんな風に人と空間を共有して、どんな風に時間を過ごすか。ということには、気が付いたらずっとこだわってきたんだなあと思いますね。
お芝居ってのは二通り考えられて、作品というものがきっちり出来上がっていて、どこに掛けようが、どんな額縁に入れようが変わらないという考え方と、みんなでその絵を取り囲んでどんな風に過ごすかという二通りだと思うんですね。それで僕は作品というのは作った側とお客さんとでどういう風に共有するかということが大切だと思うんです。そうすると額縁の向こう側がどうでもいいとは思えない。それで場所にはこだわるということですね。

Q:第1回目のコクーン歌舞伎(四谷怪談)で、舞台上で水を使ったり、千秋楽でグリーンの燕尾服を着た楽団がジャズを演奏して終わるというような演出があったと聞きました。歌舞伎の演出としては、とても斬新だと思うんですが、それは自然に出てくるものなのか、それともかなり意図的に考えたものなのなのでしょうか。

そんなにすっと出てくるわけではないんですが…、ジャズについては、勘九郎と千秋楽で最後に何しようかと話してて、彼も歌舞伎はもっと違うんじゃないかってずっと思い続けてきた人で、最後はもう一度立ち回りを繰り返すことをやりたいんだけどどうしよう、という話をしてたんですね。それで、ふと討ち入りの太鼓とジャズの「スィング・スィング・スィング」のジーン・クルーパのドラムが似てるんじゃないかという話が出て、それでちょっとやってみて、こりゃいけるぞということになって、雪を降らせて、手作りの裃だけつけてジャズの格好をした楽団が入ってきて、くるっとこちらを向いて演奏を始める。それに合わせて立ち回りをやって水の中に飛び込む…。ということをやったんです。
演出は考えてはいるんだけど、考えたことじゃないことのほうがよかったりするね。考えるのは、そのぽっと発想が出てくるためのただの準備っていう気がするなあ。

Q:ゴドーの空間は、どこにもないような不思議な空間で、白い光も新鮮なのですが、イメージの元はあるんでしょうか。
なんかこんな場所に入ったらドキドキするかなっていいうのはいつも頭にあるかな。まあゴドーは道端の話だから、道端の両側にみんながしゃがんで見るのはどうかなというのがいちばん最初にあって、いつかそんなこともやってみたいとは思うんだけど、屋外でやるには技術的にもいろいろ問題があるし…、コクーンなんかでやるときは、屋外のような空間を作ってその中でまたお芝居をする空間を作ったりとか、理想の劇空間をもう一回劇場の中に作り出すということにこだわってると思います。照明は、いわゆる劇場にある照明機材だけでは面白くないなと思って、電気が点いたという喜びとか消えたときの感覚とかを出すために、こだわって水銀灯とか工事現場の照明とかを使っています

Q:ゴドーは、不条理劇、難解といった見方もありますが、実はきちっとした演劇的構造をもって、ある意味で現実世界そのものという気がするのですが、串田さんは何度も演出され、自ら演じられてきて、どんなふうに感じ、考えられてますか。それから緒形さんとのコンビでライフワークとして演じていきたいということをおっしゃってたようですが…。

子供のころって大人の話なんて全然分からなくても、そこにいるだけで楽しかったり、今だって世界のことなんて分からない。テレビ見ながら、ニュース見ながら本当は何にも分かってない。分かんないっていう気持ちを半分ごまかしながら生きてる。昔、僕らが学生のころは、大会社に就職すれば安泰。ソ連がなくなるなんて誰も思ってない。世界は二大勢力で動いている。ところが、今は、それが一晩で壊れることがあり得る。明日家帰ったら家がないかもしれない。今日の続きが明日じゃないかもしれない、という感覚が普通になっていて、そういう人たちが観てるから、ゴドーが分かるようになったんじゃないかなと思うな。50年経って、時代がゴドーに追いついたっていう感じかな。今はむしろ何もない人の生活のほうがドラマがあって、今のお芝居なんか、何にもないものが多いかもしれないですね。
ゴドーはずっとやっていきたいと思ってます。それから、同じメンバーか、近いメンバーで現代のゴドーみたいな新作をやってみたいと前から思ってます。


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