UZU・UZUインタビュー16-3

えずこスペシャルコンサート
EZUKO SPECIAL CONCERT

2001年6月8日。coba(アコーディオン)、GONTITI(ギターデュオ)、小松亮太(バンドネオン)が一堂に会したえずこスペシャルコンサート。全国津々浦々から集まった超満員の会場は、最高の盛り上がりを見せました。そのコンサートの準備の合間を縫って、3人のアーティストたちにお話を伺いました。

cobaインタビュー

音楽的感性を軸に異分野との
コラボレーションをプロデュースしたい。


 

 

 

 

 

coba (コバ)
(2001.6.8 インタビュー)

coba(コバ)/
そのアコーディオンサウンドは従来のイメージを大きく変え、世界に衝撃と影響を与えた。18歳でイタリア留学。ベネツィアのルチアーノ・ファンチェルリ音楽院を卒業。1979年、全日本アコーディオンコンクール第1位。同年イタリアのアラッシオ国際アコーディオンコンクールでも第1位。また、ヨーロッパ各国でのCDリリースでは、チャート1位を獲得。一方、UA、カヒミカリイをはじめとするアーティストのプロデュースなど「今最も新しい音」を発信し続けている。95年〜96年には、ビョークのワールドツアーに参加。世界60カ国以上で公演し、300万人以上を動員した。また、音楽のみならず様々な分野でその才能を発揮。99年8月にcobaプロデュースによる21世紀型エンターテイメント「テクノキャバレー」をスタート。2000年12月の世紀越え公演では大好評を収める。2001年3月第24回日本アカデミー賞音楽賞優秀賞を受賞(映画「顔」)。今秋全国ツアーを計画するなど精力的に活動を展開している。


今は、組織ではなく
    個人がムーブメントをつくる時代。

Q:小学校4年生のときにアコーディオンを始められ、19歳でイタリアに留学されたわけですが、そこまでの経緯について教えてください。

 父がアコーディオン好きで、8歳の誕生日のプレゼントとして子供用のアコーディオンを買ってもらったのが出会いです。一生アコーディオンと付き合おうと真剣に思ったのは、高校一年の終わり頃。進路指導があって、将来についてあれこれ考えているうちに、ふと部屋の片隅にあるアコーディオンが目に入り、そういえば自分を一番素直に表現できるのはアコーディオンを演奏しているときじゃないだろうか、と思ったのがはじまりです。
 アコーディオンの先進国はイタリアで、その頃僕もイタリア製のアコーディオンを使っていました。まず、そのアコーディオンメーカーに 手紙を書きアドバイスを求めると、「イタリアには、あなたのように真剣にアコーディオンを学ぼうとしている人たちがたくさんいます。優れた先生と教育システムもありますから、是非イタリアにいらっしゃい」という内容の返事が来ました。それで一も二もなくイタリア行きを決め、そのメーカーのある中部イタリアのカステルフィダルドという町へ行きました。半年間そこで勉強した後、アコーディオン教育ではヨーロッパで最もハイレベルな音楽学校といわれている、ヴェネチアのルチアーノ・ファンチェルリ音楽院を探し当てて、受験したんです。

Q:イタリアではどんな生活をされていたのでしょうか。

 ルチアーノ・ファンチェルリ音楽院では、楽器の勉強の他に音楽理論なども勉強しました。そのころの僕は、この楽器の本当の魅力を人々に分かってもらえるような新しい音楽を創るという大きな目的意識を持っていました。そのためにまずは、クラシックアコーディオンのベーシックな技術と感性を養うことが不可欠でしたので、その頃は明けても暮れても練習し、一日12時間位、起きている時間はほとんどアコーディオンを触っているような状況でしたね。

Q:数々の国際コンクールで優勝し、ヴェネチア、ルチアーノ・ファンチェルリ音楽院を首席で卒業後、帰国までの間はヨーロッパでどんな活動をされていたのでしょうか。

 コンクールで賞を獲った後、いろいろな所からお声をかけていただきましたが、学校で教授陣に交じって講師として教えながら卒業を待つという状況で、基本的には学生をやっていました。運が良かったのかも知れませんが、世界コンクールに初めて出場して優勝するというケースはほとんど前例がなく、我が母校でも僕が史上2人目の優勝者だったそうで、最初の人は4年目にやっと優勝を勝ち取ったという話しでした。しかもそれが日本人だったので、なんとか学校に残ってほしいとか、イタリアで活動しないかというお声がかかったたのでしょう。しかし、僕自身クラシックを続ける気は始めからありませんでしたし、まずは一度日本に帰って自分のやりたいことを試したいと思い、イタリアを後にしました。

Q:帰国後、最初は小林靖宏という名前で活動され、その後cobaという名前に変えてから音楽的にもかなり大きく変わったと思うんですが、何か心境の変化というのはあったのでしょうか。

 ヨーロッパ各地でアルバムがリリースされるようになり、名前のクレジットを「Yasuhiro Kobayashi」というローマ字で記載していましたが、誰も正確に読んでくれないんです。ヤムシロ・コバヤスキーとか、そんな感じでね(笑)。学生時代イタリアでは「コバ」と呼ばれていたので、「koba」を、もうちょっとしゃれた感じで、角が立たないように「k」を丸い「c」にしよう、というようなことがあったかどうかはともかく(笑)「coba」としたわけです。
 cobaになって音楽的に大きく変化した…という意識はありませんが、元来僕は大のテクノ好きで、いわゆるクラブ系の音楽も昔からよく聴いていたんです。自分のやりたいことを少しずつアルバムで広げて行った感じですね。また、ビョークとのツアーで数年間イギリスに住んでいた頃、イギリス人アーティストとの交流も深まり、彼らとのコラボレーションで、リズム系のセッションが増えたりというような変化はありましたね。そういった時期を経て、メロディアスなものとリズミカルなもの、それぞれのおもしろさ、素晴らしさ、醍醐味等が、聴く人たちの性格や年齢、精神的なものと複雑に絡み合っていく、音楽の魔力みたいなものがあるんだなと強く実感していきました。

Q:cobaさんの独自性のある音楽が日本のマスコミ、あるいは一般に受け入れられたのは、どの辺に理由があったとお考えですか。

 アコーディオンは、日本では伴奏楽器としてのイメージが強かったようですので、その認識を変え、ニュージャンルを確立する作業はものすごく大変でした。僕は、アコーディオンプレイヤーでもありますが、実際にやってきたことは人々のアコーディオンに対する固定概念をどう変えていくかという、プロデュース作業が核になっています。どうアコーディオンを見せるか、聴かせるか、僕の音楽を人々の心にどう焼き付けるかを、常に重要視してきました。今回のコンサートでも、舞台上の照明や煙の焚きかたまでこと細かく指示し、その空間全てを自分でプロデュースしています。できればホールのエントランスの香りからやりたいんですが、まあそこまではなかなかできません(笑)。

 

Q:今の世界の音楽シーンをどのように見てらっしゃいますか。

 面白いものと面白くないもの達が混在していますが、たくさん売れるものが必ずしもいいものであるとは限らないと思います。売れるという現象は、たまたまプロダクツと時代の動き、人々の気持ちの行き場みたいなものが重なって起こりますよね。今はメディアが発達している分、情報伝達がスピードアップされ、売れる速度も速まっています。作曲家たちが不遇の死を遂げ、ようやく後世になってから認められた時代と比べると、今はあまりにも音楽が消費物に成り下がってしまっている気がします。
 音楽は人間にとってかけがえのない、大切なもの。サブカルチャーという言い方がありますが、カルチャーにはメインもサブもない。すべてが人間に必要不可欠なものです。我々が子どもの頃には、どうしても聴きたい、どうしても買いたいというレコードや、聞き逃したくない深夜のラジオ番組がありましたよね。それが本当の文化の感じ方だと思います。カラオケでこれを歌えないと馬鹿にされるから買っとかなきゃ、という、音楽自体をアイテム化している現状から、作り手も売り手も買い手も本来の姿に戻るべきだと思います。

Q:先ほどお話に出たサブカルチャーとかアンダーグラウドシーンなどの、どの辺に興味を持たれているのでしょうか?

 僕は文化が一番最初に生まれる場所はストリートだと思っています。例えば僕らは「minimix」というパリの雑誌をディストリビューションしていて、パリのストリートで2万部、日本で1万部出しています。大体15歳から20歳までの女の子がターゲットなんですが、そいうった子達に向けてアンテナを張り巡らせているとおもしろいですね。日本でも、ちょっと前には「ゆず」みたいな二人組がギターを弾いていたり、高円寺では三味線を弾いてる子供たちがいっぱいいたりしましたが、固定概念を取り払った人たちが出てきて、新しいものを生みだす面白さがストリートにはありますね。僕もそこから始まっています。アコーディオンはこうじゃなきゃならない、音楽はこうじゃなければいけない、食事する時にはこう食べなくていけない、こう感じなければいけない、そういったところにまず疑問を抱く、それが非常に重要なんだと思います。それこそがアンダーグラウンドシーンだと思います。

 

Q:今回の3組のアーティストの共演企画についてはどう思われますか。

 なかなか今回のような共演の機会がないので非常にうれしい企画ですね。聴いてる方々にも贅沢な企画だと思います。cobaやゴンチチさん、小松さんに共通しているのはもしかすると、音楽を消費アイテムにしている人々に対して、俺たちのやりたい音楽は違う!ということを音で表現していることかもしれません。自分の欲望に忠実ならばこそ、それに共鳴する人たちのことも見えていなければいけないと思いますが、そういったフィロソフィを持った人たちが共演できる機会を与えていただいたことに大感謝です。おそらくこれが東京だったら、いろんな絡みで企画がうまく運営できなかったかもしれないですね。そういう意味では文化は地方に在りですね。

Q:最近、地方に文化在りといったことで気づかれたこととかはありますか。

 ええ、例えばこちらのホールにしても、最初は田んぼの中に何でこんなホールがあるんだろう?と不思議に思いましたが、「えんずこ」というものの存在を知り、その意味を知って外観を見た時に、なるほど!と思いました。自分たちの文化という、かけがいのないものに目を向けない人達が、海外から人を呼んでイベントを創っても絶対に成功などしません。この場所で、そのホールの人たちは何を考えて、どう運営しているんだろう?文化はそういうことを通して見えてくると思います。
 それから、例えば地方の人の味覚というのはすごく優れていると思うんです。いい食材に恵まれているということが大きいかもしれませんが、一つの感性が優れているとほかの感性も高まりますから、僕は地方の人の感性に興味を魅かれます。
 いまや組織がものをつくることにみんな失望し、組織ではなく個人がムーブメントをつくる時代だとようやく気付きはじめています。マニュファクチャーな地方、そして地方文化。まさにこういう地方にあるホールだからこそできることがたくさんあると思います。

Q:映画が大変お好きだと聞いているんですが、特にお好きな作品とか監督があれば、教えてください。

 監督はイタリアのフェリーニとかタビアーニ兄弟、トルナトーレ、それからこの間カンヌを取ったナンニ・モレッティも好きです。一昔前のイタリアを今の感性で表現している人たち、決してノスタルジーではない、現実的な形で表現する人たちというのは好きですね。

Q:今後の音楽活動の展開、それから長期的に見てやってみたいことなどがありましたら教えてください。

 10月から全国ツアーを行います。10月10日の郡山市民文化センターからスタートし、仙台は11月7日電力ホール、盛岡は11月8日岩手教育会館です。今までのツアーになかった試みをいくつかやりたいなと思ってます。それから、イタリア料理界のシェフの方々とも非常に親しくお付き合いしてるんですが、来年2月にはその人たちと新しい企画をやります。シェフが作った一品一品のメニューに僕が音楽をつけてライブでやるというものです。東京を皮切りにスタートする予定です。
 長期的には、99年からスタートしている僕の企画、「テクノキャバレー」のように、五感を追究しながら音楽的感性を軸にしたプロデュース活動を続けていくと思います。例えば、うまい物を食べて味覚が敏感になると他の感覚も冴えてきますが、音楽や照明などすべてを最高の状況にして、同時多発的にいろいろなことを起こしたら、高まった感覚が相互作用を及ぼして、これまでに味わったことのないような快楽を追究できると思うんです。今回のようなコラボレーションと違い、異分野の方とのコラボレーションは実現化までなかなか難しいですが、ひとつ具体的なプランとして、フランスのある町の馬事公苑。そこの馬のサーカスを舞台に、光と馬と音楽の夢のような一夜のパフォーマンスをつくりたいと考えています。その町には無農薬で野菜を作っている方もいます。彼らの作った素材を使ってメニューを考案し、食後に野外でのショーを楽しむ。素晴らしい素材にちょっと手を加えただけでこんな素敵なものができ上がるんだ、っていうようなことをやっていきたいですね。


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