UZU・UZUインタビュー13

狂言には、普遍的笑い、
世界に共通する笑いがあるんです。
その心身ともに健康な笑いが狂言の真髄です。


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和泉元彌


2000.7.19
▲「若くても舞台に上がったら562歳じゃいけない」と語る和泉元彌さん

2000年7月19日、えずこホールで開催された和泉流狂言ライブ。
560年あまりの伝統とその意志を受け継いだ若き当主 和泉元彌 氏。
時を超え、更に輝きを増し続ける和泉流狂言の伝統、
そして、革新の世界を元彌氏に尋ねました。

最近、古典芸能がブレイクしていますが、皆さんが古いものについて関心を寄せている原因や理由は、どこにあるとお思いですか?

和泉:今まで古典芸能に興味を持たなかった人が持つようになったことですね。そのきっかけと言えば、テレビやCM、その他の取材を通して、若い世代が古典芸能に一所懸命取り組んでいることを知っていただいた。そのことによって、若い方も足を運ぶようになり、狂言がより身近になってきたのではないかと考えています。例えば、10年前になりますけど、姉が史上初女性狂言師ということで、誕生したときには多くの取材をいただきました。それこそ狂言という言葉すら知らなかった人が、じゃ一回観に行こうかという乗りで来ていただけるようになったんです。それから、リピーターが増えたというのは、確実にありますね。演劇が好きだとか、古典が好きだとか、狂言師を見たいなどきっかけがすごく増えたんじゃないかな。今の時代、外から入ってくるものが、十分に入ってきて、反対に外の人が日本に興味を持ったときに、日本にはどんなものがあるのかと質問をうけても答えられない。でも、最近は小学校の教科書にも狂言が復活して、いろいろな分野で今このときにあいまってるんだと感じてます。

狂言には、さまざまな演目があると思いますが、元彌さんにとっての最も気に入ってる作品や作品の中のシーンがあったら教えてください。

和泉:父が254曲全部を歴史上初めて開演したんですが、今の時代は、その254曲総てが並んでますから、総てを観てやろうとういう気持ちでいてくれたら最高ですね。特に初心者の方が、そして、演じている僕たちも狂言らしいなと思う演目は、「棒縛」とか「二人袴」という演目かな。でも、曲それぞれの見所や聴かせ所があるので、甲乙つけがたいですね。棒縛に関しては、海外でも12カ国30都市ほど上演させていただいているのですが、日本と変わらないところで笑いが返ってくるんです。狂言というのは、セリフと仕草で演じられるので、もし言葉で分からない部分も滑稽な動きで笑えたりするんです。それから、その動きを見ると何をしようとしているのかが分かったりするんですね。そういうところは、狂言の底力を感じますね。

これまでの海外公演での反応について、どんなふうに感じてらっしゃいますか?

反応では、アメリカがいちばん派手でしたね。笑いがひじょうにフランクというか、ストレートなんです。それから、ヨーロッパの方にいくと、演劇というものを見慣れているなぁという感じがありましたね。少し落ち着いた雰囲気で楽しもうという感じが客席から伝わってきました。アジアでは、国よってそれぞれ反応が違っていました。僕が初めて海外公演を行ったのが、中国だったんですが、1988年ですから、実は天安門事件の前の年に行ってるんです。旧体制ですね。そして、事件後も毎年のように中国にはお邪魔しているんですが、同じ国でも社会背景で反応がこんなにも違うものなんだなぁと思いました。昔は、笑い声がほとんど聞かれなかったんです。だからといって面白くないかっていうと、そうではなくて、反応が拍手で返ってくるんです。

海外での公演で、字幕はあるんですか?

和泉:最近の中国での2回の公演では、字幕が出ています。何回も行きますといろんな演目を出していきますからね。フランスでも一度字幕を出したんですが、その後、字幕は出していないんです。セリフを理解するには字幕はいいんですが、字幕を読んでいるうちに、仕草の方が見落としてしまったりするんです。すると、本を読んで楽しんでいるようになってしまうわけで、もったいないなぁと思って、最近は字幕を出していません。。舞台全体を楽しんでいただければ一番いいわけですから・・・。

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▲狂言ライブの舞台シーン
(右:和泉元彌、左:三宅籐九郎(和泉祥子))

3歳で初舞台、8歳で「三番叟」を演じ、16歳で秘曲「釣孤」を演じるなどずっと第一線で活躍してこられたわけですが、子供のころからどんな気持ちで演じてらっしゃったのか、そして、現在の気持ちとの違いはあるのかお聞きしたいのですが。

和泉:まず、今と昔が変わったかといったら、そんなに変わっていなくて、根本的には、狂言が好きだという気持ちを持ちつづけています。稽古が始まったのが1歳半からですから、物心がつく前です。歩き出すころ、足袋を履いて生活することから始まりました。そして、言葉を覚えるころに挨拶の稽古、そして狂言の稽古がだんだんと始まっていきます。物心がついたころには、稽古が毎日あって、自分のリズムの中に入ってるんです。そんな中で、やらされてるって感覚は、全然なかったですね。好きでやってるという感覚でした。狂言の稽古というのは、口伝伝承で、一句ずつ真似をしていきますから、父が一句ずつ発することで、ストーリーが進んでいくんです。皆さんが観て面白いなということを自分たちも稽古の中では、面白いと感じながら学んでいったんです。僕たちが大きくなって、例えばこれが一生の役割だと分かってからでも、仕事だと割り切れはしません。ですから、自分がやっていることのすばらしさを感じることで、公演が行われ、多くの人に観ていただけることが一番いい形だと考えています。小さいときから宗家継承者として舞台に上がってきましたから、責任を感じていました。伝統的なものは伝統的に演じるすばらしさを、体現していた父が師匠でしたから、それを見ていて格好良かったし、前を歩いて引っ張っていってくれていたと思います。師匠に憧れ、狂言に憧れて、続けて来れたんだと思います。今は、自分が宗家という立場になりましたから、今度は自分が受け持つ責任がずっと重くなったと思います。でも、その重さがプレッシャーになってしまうかと言うとそうでもなくて、今まで通りのことを丁寧にやっていくことしかできませんし、それが良い形で1年ずつを足し算していけることだと思っています。和泉流といえば、和泉元彌だという風に良い意味で欲を出しながら、演じていければと考えています。

狂言の真髄と言うのは、どのへんにあるとお思いですか?

和泉:昔から変わらないからこそ伝統芸能と言われるわけですから、父が示してくれたことを伝統的に演じることこそ美しいことなんです。ですから、僕たちは、型を絶対に違えないという形で受け継いできているんです。父は亡くなりましたが、習ったこととか、父が舞台で演じていたことを思い出しては、繰り返し繰り返し稽古していくんです。父は、生前から教えないという教え方が一番いいんだと言っておりました。教えてもらえなくなって一所懸命やっていく中で、反対に型が教えてくれることってたくさんあるんです。気持ちとか心というものを型の中に込めてずっと受け継いできたわけですから、型を疎かにしてしまったら、心が伝わらなくなってしまうんです。心を伝えるバロメータとして、型はしかっりと守りつつ、心をもって演じると、観てくださる皆さんから笑いという反応が返ってくるんです。狂言は、伝統芸能の中で唯一の喜劇なのですが、一番根本に流れているのは、普遍的な笑い。実際観てみれば、装束付けや登場人物は、全く昔の設定です。でも、内容さえ良く観ていれば、どんな風にも背景を描くことができます。例えば、太郎冠者をお勤めするお父さんに重ねることもできるし、上司に主人を見立てることもできる。すると、そう言うことってあるなぁとか、昔の人も同じように人間関係を見ていたんだなぁと感じていただけると思います。また、あるずっこけ話では、ずっこけだけではなく、影で泣いている人がいたりするんです。狂言の笑いは、無理やり笑わせようとするのではなく、身近に起こりうる設定の中で、心身ともに健康な笑いを引き出そうということが根底にある。それがずっと引き継がれてきて、狂言の核になっているんだと思います。

お父さまの意思を継いで、世界の喜劇を狂言に取り入れていきたいとお話されていたと思いますが、それについて具体的には、どのようにお考えなのでしょう?

和泉:自分たちが一番やりたいこと、またやるべきことは、伝統を守りながら今の時代にしっかりと生きた形で残していくことです。そして、それを多くの方々に観ていただくことです。父は、日本のものでも20曲ほど新作狂言を作りました。また、和泉流254曲を完演間近に控えて、日本の狂言にできることは一区切りの段階だったんです。次に、世界に向けてできることは、と考えたときに、世界の四大喜劇があって、それを見てみると昔から伝わってきている笑いというのが、変わらない。そのことが、狂言に共通したんですね。それで、取り入れようとしたんです。でも、父は四大喜劇のうち、イギリスとフランスだけを取り入れて他界してしまったので、残り2曲は、僕がやるべきことと思っているんです。だからといって、ただ面白おかしく遊び半分で作ってしまうと、一つの広がりを持つべき部分で狂言が壊れてしまうと、主客転倒になってしまうので、慎重にならなければと思ってます。それで、きっと僕が初めて作るのは、その残されたイタリアかギリシャ物だと思っていたんですが、実は昨年、岡山県で桃太郎を新作狂言で作ってほしいと言われたんです。それが自分に与えられた時だなと思いまして、作らせていただきました。伝統と革新という二つの流れを父が持っていたわけですが、伝統は受け継ぐけれども、革新の部分は父と共感できないからやらないというのではなく、両方とも受け継いでいきたいと思います。演目については、共通点が見出しやすい演目を選んでいきたいと考えています。父は、亡くなる前コメディアデアルテというイタリアの喜劇では曲を選ぼうとしてましたので、何気なく話していたことの中に、もしかしたらコメディアデアルテの中の話があるかもしれないと思っています。

お父さまの遺作ハムレットは、もともと悲劇ですが、それを喜劇の狂言の中に取り上げたのは、どのような意図があったのでしょうか?

和泉:父は、悲劇なら喜劇だ、喜劇なら悲劇なんだと言っておりました。片方だけでは物語というのは成り立たないんだということです。観ようによっては、喜劇も行き過ぎれば人を泣かすこともある。どういう風に描くか、結末をどのように作るかで喜劇になったり、悲劇になったりするわけです。和泉流254曲中にも1曲だけ悲劇的要素の強い「川上」とういう作品があるんです。そのことと、喜劇をシェイクスピアから4曲作ったときに、イギリスの方から悲劇を作ることはできないのですかと言われました。ですから、ハムレットは悲劇という形だけではない作品として、狂言の中でも描きうるものだったんだと思います。

来年のNHKの大河ドラマの北条時宗の主役が決定していますが、どのように取り組みたいかなど抱負があったら教えてください。

和泉:狂言の世界では、自分のいる場所という安心感があるんですが、一方では、周りのことを自分が引っ張っていかなければならない緊張感もあるわけです。反対に外の世界では、演出家や監督に任せておける安心感があります。ただ、狂言師が外の世界で迷惑を掛けることはしていけないという緊張感ももう一方ではあるんです。(笑) 父は狂言に対しては、いつも素直でいなさいと言っておりました。稽古中、習うということにおいて、吸収する心や体を作っていくことが一番大切なことだと思うんです。外の世界に行くときは、ゼロからの出発だと思っているので、そこにある総てが吸収する対象になるわけです。ですから、いろいろなものを吸収していきたいたいと思うんです。僕は、生まれながらにして宗家継承者であって、宗家になるための修業をさせていただきました。北条時宗も父時頼からお前も執権になるとずっと言われて育ち、若くして執権職を継ぐわけですが、今、日本は家というのものを意識していない世の中で、それを意識する数少ない家に生まれた和泉さんと時宗は重なるところがある。そうした点で人間的な部分をありのままに出していただければと番組側からもお話いただきました。僕も若くして家を継ぐ形になりましたが、その若さゆえデメリットもあると思います。でも、若くても舞台に上がったら562歳でならなければいけないと思ってずっと舞台に立ってきたんです。昔の日本は、執権職に若い人間を立てました。今の日本でも、若い人間を認めて路を歩ませてほしいという思いも込めながら演じられたらいいですね。若い世代の僕としては、年齢だけではなくて環境が育てる人間があるんだということを知っていただければと思っています。

これからやりたいことがあれば、教えてください。

和泉:長い時間をかけて、日本室町化計画というのを今考えています。狂言が生まれた古き良き日本を狂言を通して知っていただくものです。反対に狂言を観るときに、知識ではなくて体験で楽しんでいただけるように昔の常識はこうだったとか、昔の日本には、四季がしっかりとあって、狂言にはそれが残っていることを伝え、楽しんでいただいけばいいなという計画です。

-ありがとうございました。


和泉 元彌/
和泉流二十世宗家。「三番叟」を弱冠八歳で、大秘曲「釣狐」を十六歳とう異例の若さで演じた。平成十年「狸腹鼓」を披いた。TVコマーシャルなどでも活躍中。平成13年のNHK大河ドラマ「北条時宗」の主役が決定するなど、各方面でも大きな注目を集めている。

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▲舞台シーン
(右:三宅藤九郎(和泉祥子)、 左:和泉淳子)

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