UZU・UZUインタビュー11

洋楽も雅楽も、同じレベルで僕の中には存在しています。


 

 

東儀 秀樹




1999.12.18
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Q:東儀さんは、奈良時代から連綿と続く「楽家」(がっけ)に生まれ、幼少時代から雅楽にふれて育ったと思うのですがですが、子どものころは雅楽をどのように捉えていましたか?

実は、幼少時代から雅楽に触れてきたわけではないんです。母方が東儀家であって、父は普通の商社マンだったんです。宮内庁で雅楽をやる人間は、男性だけですから、母が雅楽をすることもなく、サラリーマンの家庭としての普通の生活環境だったんです。将来は、父にならってサラリーマンになるんだろうっていう状況でした。ですから、幼稚園とか小学校のころは、全く東儀家が何かってことも、分からないまま過ごしてたんです。父の転勤で海外にいたこと以外は、普通の児童と同じだったと思います。

Q:幼少時海外で過ごし、ロック、ジャズ、クラシックに親しまれたそうですが、どこで過ごされてどんな音楽を聴いていましたか? 

雅楽家としては、海外転勤による帰国子女というのは、非常に珍しいんですが、1歳から7歳までタイのバンコクにいまして、それから中1から中2にかけてメキシコシティにいました。幼稚園のときアメリカ人の子どもの影響を受けて、ビートルズが好きになったんです。それと、今はそうではないですが、当時は娯楽がない場所だったんで、ミュージカルとかが来ると一家でそれを観にいくことが当たり前だったんです。ですから、娯楽がないところで、上質なものにふれる機会があったことはすごくいい経験だったと思うんですね。家では父とか母が、クラシックとか映画音楽とか聴いていたんで、要するに、ロックにしても、クラシックにしても、ポップにしても、同じレベルで、僕の中には存在していたんです。

それから、当時僕はビートルズになりたくてギターをオモチャとしておねだりしたことがあったんですが、そこで買ってくれたのが、本物のウクレレだったんです。ほんとのプロが使うようなもので、音質といい音の幅といい正確なもので、音楽に入るといいきっかけになったと思います。 

中学のころは、自分の好きな音楽を捜すようになってました。そのころ、アメリカ音楽の影響を受けて、レコード屋さんにいくと、ヒットチャートとか気になったり、ラジオから流れてくるものもアメリカで流行っているものがそのまま流れていて、そこで、いろんな種類のロック、例えば、ハードロックとか、ウェストコーストロック、プログレッシブロックというものをわけ隔てなく好きになってました。それで、そのまま高校生のときにロックバンドとかジャズバンドとかやったりしてその方向にいこうとしていたんです。

Q:高校のころ、バンド活動をされてたということですが、どんな楽器でどんな音楽をやってらっしゃたのでしょう?また、チェロも演奏していたそうですが、その辺をお聞かせください。

僕は、ギターがかなり得意だったんで、ずっとギター中心だったんですけれども、このころのバンドって、みんなギターに殺到して、キーボードは誰がやるかっていうことが、よくあったんですね。僕は、習ったわけではないんですが、ピアノがそのころには弾けたんでバンドによっては、キーボードをやっていたり、ボーカルをやることもありました。種類としては、例えばディープパープルとかレッドツェッペリンのコピーバンドもあったし、日本のロックっていうのも結構おもしろくて、カルメンマキ&OZとか四人囃子というのもコピーしてみたり、オリジナルも作ったりしてました。

チェロは、雅楽を始めると同時だったんです。というのは、宮内庁でやることは、僕の場合、篳篥(ひちりき)と琵琶(びわ)をひくこと、歌を歌うこと、舞を舞うこと、打楽器を全部マスターすること、これらは雅楽で最低限必要なことなんです。で、それ以外に宮中晩餐会があるために、普通の洋楽で食事のBGMをするんですね。それは、雅楽の人間が担当してるんです。ですから、誰もがみんな一つはオーケストラの楽器をできなければいけないんですが、僕はチェロに興味があったんで、チェロをやるようになったんです。

Q:楽師になられてからは、伝統的な雅楽の音と、現代のシンセサイザー、コンピュータミュージックの融合というような方向性で音作りをされているようですが、それは、自然の流れでそうなったのでしょうか?

実は、何の考え方もないし、きっかけもないんです。だから、ねらったわけではなかったんです。東洋のものと西洋のものを結びつけて、人がやってない何かを創ろうとし、こうゆう形になったと思われがちなんでしょうけど、全然そうではなくて、生活環境とか家庭環境の中に、いろんな種類の音楽が常にあって、好きで聴いていたのは、ロックやクラシックとよく聴けるようなものだけど、民族音楽っていうのも聴く状況ではいたんですね。そういった全ての影響があった上に、今度は正統に継承し、訓練を受けた雅楽がのってきた。僕は結構好奇心が旺盛だから、遊び心で、例えば、篳篥を練習するのにオモチャとして遊ぶようにいろんなことを試してみたりするんですが、その方が手っ取り早いなってよく思うんです。そんな、遊び心から段々発展した形というか、曲については、洋楽も雅楽も同じレベルで僕の中に存在していて、自然に湧き上がってきた形だった気がします。

Q:東儀さんの音を聴くと、ニューエイジミュージック、あるいは、ヒーリングミュージックといった音にとても近いものを感じますが、そう呼んでもいいのでしょうか?また、ケルト音楽と共通するような響きも感じられますが、ご自分で自分の音楽をどのように感じていますか?

ニューエイジミュージックというのは、ジャンル分けが図り難いものですよね。だから、ニューエイジとしかいいようがないんだと思うし、聴く人に委ねていいと思います。

ヒーリングっていうものに関しては、僕はヒーリングミュージックっていうものが疑問でしょうがないんです。音楽っていうのはどんな種類であれ、ヒーリングだと思います。例えば、すごくうるさいパンクロックだって、人によってはカッコイイと思った瞬間からヒーリングだし、シンセサイザーのいわゆるヒーリングミュージックを聴いてもイライラすることもあります。だから、これはヒーリングですっていう定義は音楽に付けてはいけないんだと思うんです。僕はヒーリング音楽を作っているとは全然思っていない。だけれども、僕が聴きたいものを作った音で、聴いた人がヒーリングになった、癒しになったというのは、本来の音楽のあり方がそこに存在できたことですから、すごく嬉しいことだと思います。結果として、ヒーリングと呼ばれるなら、嬉しいですね。

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▲ゆったりとした音の流れに
心洗われるステージでした。

ケルト音楽については、かなり共通点を感じています。たぶんケルトだけじゃなくて、民族意識が高いもの、それが残っている新しい音楽であれば、ほとんど同じものなんだろうなと思うんですけれども、本来人間がもっている歌心は、必ず声に揺らぎが存在すると思うんです。たまたま僕がやってる篳篥も声と同じ揺らぎを表現しているんですが、ケルトの管楽器も歌ってるように吹いているという点で、共通点を感じるんだと思います。あちらはかなり西洋であるし、僕のは東洋であるんですが、考え方としては、東洋とか西洋とかじゃないもっと原始的レベルの人間の音に対する感じ方であるように思うんです。

Q:東儀さんは、幼少からの環境もあり、国際感覚をお持ちだと思うのですが、日本人としてのナショナリズムをどのように感じていらっしゃいますか?

外国に行ったから、国際感覚が育つとは思っていないんです。僕の帰国子女の友だちの中には、外国にかぶれてしまって、日本なんか遅れているとかバカにする人もたくさんいましたからね。僕の場合、親や生活環境がよかったと思うんですが、外国にいながらにして、茶道とか日本の美術とか意外と身近に散らされていて、それを頭ごなしにいいものだから、見なさいとか、やりなさいとか言われたがことが一度もなかったんです。それとなく本物が近くにあって、それらに興味を持って外国にいたので、どんどんそういうものを大切にしたい、と思ってきたんですね。それから、幼いころ外国にいたとき、「小さい君たちこそが、本当の外交官なのかもしれないよ」って大人の人たちの誰かが、言っていたのをすごく純粋にとらえることができて、「胸を張って日本人として外交しなきゃいけない」と子供心に思ったんですね。メキシコなんかでは、中には日本が中国の一部で、その中の県か何かと思われていることがよくあって、それにすごく腹を立てたり、日本のことをもっとよく知ってほしいと思ってました。それで、日本に帰って、たっぷりと日本の様式美とか、道徳観、美に対する考え、季節感や自然観、宇宙観と、どんどん興味が増えてきたんです。外国にいたから比べることができて、やっと見えてくるものがあったんですね。雅楽にしても、洋楽をたっぷりやったから、雅楽の揺らぎの美しさを雅楽だけをやってきた人よりもいろんなサイドで見ることができたんです。それと同じように、文化とか、言葉にしたって、日本のよさっていうのを比べることで知ることができると思うんです。

Q:これからどんな音楽をやっていきたいと考えていますか?また、音楽以外でもいいのですが、これから一番やってみたいことは何ですか?

音楽以外でやってみたいことはいくらでもあるんですが、音楽では、あまり目的意識って持ってないんです。一歩一歩興味の向くままにやってきて、こういう形ができてきて、これからもこれでいければいいな、と思っています。ただ、具体的に挙げるとするならば、実は今少しずつ始めてるんですが、シンセの部分をフルオーケストラでやる、例えば、篳篥コンチェルトみたいなものを作ってみたいなと思っています。現にそういうオファーが実際にきてまして、来年の終わりごろには、そのコンサートが始まるんじゃないかと思います。

音楽以外にやりたいことは、ただでさえ趣味がものすごくたくさんあって、少ない時間でもあれば、僕はそれに充ててるんですね。陸だと、車とかバイクとか馬とか、海だとサーフィンとかダイビングとかやってきてるんですが、あと残ってるのは空を飛ぶことぐらいかなと思ってて、パラグライダーとか飛行機の免許とか取りたいなと思っています。

-ありがとうございました。


■photo 東儀秀樹
1959年東京都生まれ。幼少期をタイ、メキシコで過ごし、ロック、クラシック、ジャズなど様々なジャンルの音楽を吸収しながら成長した。高校卒業後、宮内庁式部職楽部の音生科で雅楽を学び、1986年に楽師となる。その一方でピアノやシンセサイザー、コンピューターとともに雅楽の持ち味を生かした独自の曲の創作にも情熱を傾け、1996年1月、デビューアルバム「東儀秀樹」をリリース。広くマスコミに紹介され、脚光を浴びた。同年9月、宮内庁楽部を退職。その後「モード・オブ・ライジング・サン」「幻想譜」「TOGISM(トーギズム)」「from ASIA」と4枚のアルバムを発表。2000年1月にも2枚のCDを同時に発表している。映画やCM曲の担当、様々なジャンルのアーティストとの共演等幅広い活動で、他に類を見ない新しいアーティストとして大いに注目を浴びている。

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