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11月10日にえずこホールで上演された「愛は謎の変奏曲」。二人の名優がぶつかりあい、語り合う舞台に、観客は固唾を飲みました。芝居のすばらしさをあますところなく見せつけてくださった日本の演劇界を代表するおふたりにお聞きしました。 役作りとは 役と自分の共通点を探ること−さっそくですが、役作りについてお伺いしたいと思います。いろいろな役を演じる上で役に自分を近づける、自分に役を近づけていく場合があると思うのですが、お二方はどのように役作りをしていらっしゃいますか? 仲代 40年以上も芝居をやってますと、役と自分自身の共通点を探すということが最大の作業になる気がします。この役の気持ちはよくわかるというものにぶつかったときは、大変うまくいくんじゃないかと思うんです。ひとつの役を作り上げることは、非常にむずかしい作業です。いろいろな観察とか、その役の立場だったらどうするかということが基本になるんですね。どうもそれが一番正直な入り方じゃないかとぼくは感じるんですけど。 −今観察とおっしゃったのはこの世に生きている人間全般をいつもよく見ているということでしょうか。 仲代 そうですね。それとイメージの問題ですね。小説を読んでいても、風景描写などでもこれを映画にする場合にはどういう風景に なるとか人物はどんなものを着てるとか、そういうのが形になって現われてくる。そういう読み方をしますね。 風間 ぼくも仲代さんのおっしゃったことと全く同感ですね。ぼくの場合は、翻訳物の経験は少なくて、ここ数年は井上ひさしさんや山田太一さんの創作物、書き下ろしが多いんです。その時には、始めからこの役はぼくがやるとわかっていて、作家先生が書いて下さった。風間くんだったら、こんなふうに演じてほしいという願望とかイメージのようなものが含まれていたので、無論役作りはあるんですが、あらかじめぼくのキャラクターみたいなものが、最初から了解されているという という幸せな状況でした。 それからぼくの育ったところが劇団つかこうへい事務所と言いまして、そこでは作・演出のつかこうへいがそれぞれの俳優に合わせてセリフを作っていく。こんなセリフを風間に言わせたらおもしろいとか、こんなふうにしたらもっと狂気じみて見えるだろうとか、セクシーに見えるとか、ぼくの中にある正義感だとか幼児性だとか卑屈なところだとか、そういうものを全部座付作者が抽出してくれたというこれもまた幸せな状況があったので、本格的に役作りをするという作業を今までにして来なかった気がするんです。 役を演じるときに、自分に一番近いもの、それを探り当てて、それをデフォルメして、そこを拡大する。無論ぼくの理解を超えていることもあるんですが、それを想像力で形づくっていく。また、本を読む段階から相手の役の方が現われて来ます。その稽古の過程で、その人間が見えて来るということもあります。事前に自分の中でその役をイメージす るというよりも、長い間の稽古の中で舞台の上で自然に生まれてくるものを拾い上げていくのが役作りだといういう気がします。 人間の関係性を見せるのが 演技だと思う−テレビ、映画、舞台と活躍の場は広いお二人ですが、演ずる上でそれぞれの違いは何かありますか? 仲代 基本的には同じでしてね。この間残念ながら亡くなった黒沢明監督は、10分のシーンを多い時は6台ものカメラで撮るんです。一台はアップで、一台は引きで、一台はバストショットでというように。そうなると、ぼくが芝居してるのをどこからでも撮ってくれという感覚です。映像だからこうだとかいうのはなくて、作家によって演技は決まってくるんじゃないかなと思うんです。芝居もそうですけど、作家が何をねらわんとしているかをキャッチするのが我々、理想的に言えば、作家が何を書こうとしたのかというレベルまで行ければいいんですが、なかなかむずかしいことです。 風間 ぼくも基本的には一緒だと思います。ただ、映像の世界にはアップというものがありますね。ここはというときの人物の表情を大きくとらえる、それによって観客がよくわかるということがあると思います。アップという手法のない舞台というのは、演技がお客さんを納得させる、理解させるということをおのずと要求されます。 どんなお芝居でも登場人物達の人間関係、人間の関係性を見せていく。簡単に言うと、二人きりしか出てない場面だったら、相手に対して自分はどう思っているのか、どう思われたいのかという、どう思いたいのかという心の動きが演技だと思うので、基本的なことはどのジャンルでも変わらないだろうと思います。 −いろいろな場所で公演されて、中央と地方では何か違うことを感じられますか? 仲代 お客さんの目が肥えているということに関しては中央も地方もない。ぼくらうっかりできないんですね。ぼくら無名塾という劇団では、多いときは100回くらい全国で公演をやるんですが、地方ではお客さんが待っててくれる、迎えて下さる。まあ、今日もそうですが、非常にこっちにとりましてはうれしいことです。 風間 ぼくも若い頃は東京中心の舞台だったんですが、つかさんのところを離れてからは、各地の演劇鑑賞会の主催のもので、ほとんど全国を回っています。どこに行っても、熱い期待みたいなものを感じます。2ヶ月も前から準備して待ち焦がれているという、あたたかいもので包まれている小屋というのはなんか逆にありがたいなというかしみじみしちゃうんですけどね。 各地に立派なホールができて、ソフトのことで苦労される部分はあると思います。若い劇団が育っていくことは大切ですから、ホールの方が足繁く東京に通って、おもしろい劇団があったら引っぱってこようというような熱い交流が活発になるといいですね。 俳優は育つのではなく 生まれるもの−そうですね。いいものをお見せするだけでなく、人を育てて行ける劇場になって行きたいと思います。
無名塾をやって20数年になるんですが、役者一人育てるのに10年かかるんですね。みんな俳優さんや歌い手さんになりたがったりしますけど、みんな俳優になんかなったら日本は大変なことになってしまいます。(笑)自分が他人になったような顔をして演技するという非常に限られた極端な商売ですからね。 基礎的な勉強とかいろいろあるんでしょうけど、持って生まれたもの、俳優になるべくして生まれた人っていうのがやっぱり俳優教育の基本になるんです。そういう人が一生懸命芸を磨く。育つものではないんですね。生 まれるものなんです。 みんなで創ることの解放感、地域で生きたという実感を 求める人が演劇をやればいい−いろいろな人間を育てていらっしゃるわけですが、才能のひらめきを感じるのはどんなときですか? 仲代 人間が人間を演じるわけですから、人間的におもしろくないとね。俳優も演出も。有名なヴァイオリンの先生がおっしゃったんですが、最終的にはですね。若い人たちを教えていて最終的には、頭の良さだと言うんですね。そういうことはあるなと思います。 また、自分は何を創りたいのか、どういう芝居をしたいのか、芸術家としてどういうふうにお客さんにアピールしたいのか、そういうものを持っていないと。今マスコミに売れてるからと流されるままになっていると、なんともはかない商売なんですね。 風間 プロの役者を目指している者としてはこういう役者になれたらいいなとか、この人こそ役者だなと思う人というのは、森繁先生の言葉じゃないですけれど、品性と哀愁と色気が備わった人なんでしょうね。 ただどうなんでしょう。地方でアマチュアの方が演劇をやられてる方に、本当に必要なのは何なのだろうと考えると、演じるということが自分にとって、なんかこう、無上の喜び、解放というか、自分が生きていることの礎というかよすがになるという、そういう切実なものを求めてる人が本来やるべきで、なまじプロ志向の人は、どこか研究所にでも行けばいいと思います。仲代さんの無名塾の門をたたくとか…。(笑) ここで根付かせる演劇というのは、地域のみんなで創ったことによる解放感とか、ここで自分が生きたっていう実感ですかね。そういうものを求めている人がやる。そういうことでいいんじゃないかと思うんです。 仲代 みんなで芝居を創り上げていくことによって、お互いの連帯感ができたりね。プロというのはお金をいただかなきゃならないんで、どうしても…。 本当に芝居を楽しむというのは、風間さん がおっしゃったようなことにあるんじゃないかなという気がしてしょうがないんですけどね。 −ありがとうございました。
風間杜夫/ |