UZU・UZUインタビュー3

形のいいすてきなどんぐりより

いびつでも大きな木になって

花を咲かせるどんぐり

であってほしい


 


円光寺雅彦
(仙台フィルハーモニー管弦楽団常任指揮者)

聞き手:吉川由美(えずこホールコーディネーター)

1997.3


 えずこミュージック♪アカデミー開講を前に、仙台フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者、そして、全国・世界でご活躍の円光寺雅彦さんにお忙しいリハーサルの合間をぬってお話を伺いました。

 

指揮者をやっていて毎日よかったと思います

−どんなきっかけで音楽の道に入られたのですか?

 多くの音楽家がそうなのですが、小さいころから親に強制的にやらされないと技術的に間に合わないということがありまして、3才半くらいでピアノを始め、桐朋学園の音楽教室に通いました。桐朋はご存じのとおりオーケストラが有名です。小沢征爾さん始めすばらしい音楽家を輩出しています。小学校の5年くらいのとき、そのオーケストラの演奏会があるということでピアノの先生に切符をいただきました。それがちょうど尾高忠明さんと井上道義さんのデビュー・コンサートだったのです。それを見て、かっこいいなあと思ったわけです。ピアノをひとりで弾いているよりも、みんなと一緒に音楽をするほうが楽しそうだなあと子ども心に思って、中学から、斎藤秀雄先生について指揮を勉強し始めました。

−指揮者をやっていてよかったと思われる瞬間についてお話しください。

 毎日思っているんです。人生半分以上来ちゃったかなという感じになると、今までさんざん演奏してきた曲が、また新たにいとおしく思えてくるのです。こういう仕事に携わっていてよかったなあと思うんですよね。同じ譜面を見ていても10年たつとまるで違う曲のように思えますね。

 指揮者になったからには、ベートーヴェンをちゃんとふれる指揮者になりたいなというのがぼくの最終目標です。たくさんのすぐれた作曲家がいますが、古典中の古典であるベートーヴェン、ブラームス、モーツァルトっていうものをちゃんとふれるかどうかで指揮者は本当の価値を評価されると思うのです。

 ぼくが一番うれしいのは、お客様にもオーケストラのメンバーにも「今日はよかったね」とか「いい演奏だったね」と言われるより、「これいい曲だね」と言われることなのです。指揮者というのはその曲に身を捧げて芸術活動に携わるわけですから、「これいい曲だったんですね」と言われることは、最上の喜びです。指揮者もオケも黒子になってその作品だけを浮かび上がらせることができたわけで、これが一番の理想なのです。

 

神様に呼ばれたように そのとき、彼は立ち上がった

−音楽の魅力は?

 ぼくが駆け出しのころ、群馬交響楽団にカルロ・ゼッキという指揮者がいらっしゃいました。彼は、アバドとかバレンボイムとか世界一流の指揮者といわれている人の先生なんです。そのころ、ぼくは東京フィルの副指揮者をしていたのですが、群馬交響楽団に頼まれて1週間雇われたことがありました。カルロ・ゼッキは、もう80才のご高齢ですでに病気も進行していて車椅子生活でした。翌年に彼は亡くなってしまったのですが…。両脇からかかえられて椅子にすわり、そうやって彼はかろうじて指揮をしていました。シューベルトの「グレート」という曲をやったのですがまず練習が始まるときに「おはよう」と言うんです。それから「グレート」を一回通すと、「疲れた」と言って帰るんです。発する言葉はこの二言だけ。具体的にここをこうしろとかクレッシェンドしろとかいう注文は全くしない。「おはよう」と「疲れた」だけなんです。これを一週間繰り返すわけです。しかし、それだけだと群馬交響楽団も本番に向けて不安なので、先生をお送りしたあとにぼくがたとえば音程の悪かったところだとか線がずれていたところとかをチェックしておいて、練習したわけですね。本番の日、彼は両脇からかかえられて登場しました。ステージ・マネージャーが松葉杖を持って引っ込み、そして、本番が始まりました。クライマックスの時です。本来立てないはずの人が、神様に呼ばれたようにこう立ちあがったのです。その瞬間は本当にこの世のものとは思えませんでした。今でも群響の人達は、あの時のゼッキの演奏がおれたちの一番の演奏だと口を揃えて言うんですね。

 ゼッキがふったとき、東京のオケよりはるかにすばらしい音がしたのです。指揮者というのは、何なのだろうと思いました。

 ぼくが学生のころ桐朋学園のオーケストラに行っていたときのことです。あるとき、オーケストラの音がはっとするように変わったのです。斎藤先生が豆粒みたいに現れているんですよ。先生が現れた瞬間に、わっと音が変わってしまう。存在感なんですよ。

 どうやったらそうなれるのかというのは、いまだにわからないわけですけど、まあ、最終的には人間を磨くしかないのでしょうけど…。結局その人がそこにいるということだけでいい音楽が生まれるんです。

 物理にしろ科学にしろ考古学にしろ、真実はひとつですよね。そして、それを求めていくという学問は多いです。しかし、芸術の世界では、芸術家が3人いると3つの真実がある。真実がいっぱいあるというすばらしさがあると思います。同じベートーヴェンでも、フルトヴェングラーがふったものもすばらしいし、トスカニーニがふったものは全然違う音楽なのだけど、それもすばらしい。それぞれに違う真実があるのです。

 

地域の人たちに愛されるオーケストラを育てる実験

−仙フィルは地方楽団でも屈指の楽団に成長したと思うのですが、その背景にはどのようなことがあったのですか?

一番大きいのは、若いオーケストラだったということだと思います。馬力があって無理がきく。

 また、オーケストラというのは、ヴァイオリンで言うと糸の部分とこまの部分という役割しか持っていない。そこに木の胴体がついて始めて音が出るわけですが、胴体の部分というのは、オーケストラでいうとホールなんですね。日本のオーケストラはみんな自分のホールを持っていない。これは、バイオリンの糸とこましか持っていないわけですから、未完成なわけですよね。まだ、完全な形ではないですけれど、青年文化センターをほとんどフランチャイズのように使えたということは、たいへん大きかったと思います。これが成長の大きな原因だと思います。

 だから、えずこホールも、ホールというのがあれば、そこに人が育つわけですから、これはすばらしいことなのです。本番の舞台で練習しないと意味ないんですよ。ヨーロッパでは、10万人の町に必ずオーケストラ専用のホールを持っています。オーケストラは、ホールと一体になって初めて一人前だといえるわけなんですね。

 また、ぼくらは、東北の片田舎に住んで、地域の人に愛されるオーケストラをまるでヨーロッパとの接点を持たない中でどこまでできるかという実験もできると思います。ベートーヴェンやモーツァルトはヨーロッパ人ですが、彼等の人間としての普遍性という大切な部分に目を向けて。

 仙台フィルというのは、意外と東京・大阪・北海道の人から評価をされているのです。まだ、県民の皆さんや東北の皆さんには浸透が足りない。ヨーロッパの楽団というのは200年からの歴史がありますからね。これから200年先にすばらしい世界を作るには、まず僕たちが第一歩の布石を敷かなくてはならない。

 東京にはいろいろな刺激や情報はあるわけですが、仙台の方がたっぷり練習もできるし、ベートーヴェンやブラームスもたくさんやれると思います。そういう環境でこそ若い人は育つと感じますし、大事な時期を過ごすことはよいと思います。東京のような競争社会であっぷあっぷしていると、年とってから蓄積がなくなっちゃうんじゃないかとも思ったりします。

 とにかく、仙台フィルの演奏を聴きたいといって日本全国から世界からお客様が宮城県にいらしてくれることが理想ですね。

 

結局は愛情を降り注いでくれる人がいるかどうかです

−えずこホールではえずこミュージック♪アカデミーを開催していくのですが何かアドバイスしていただけないでしょうか?

 最近の若い人やぼく自身の娘を見ていましても、どうも覇気のない子が多い気がします。

 学生オーケストラもたまにふるのですが最近の若い人たちは、形のいいすてきなどんぐりになろうとします。そうじゃなくて、たとえいびつでも、一度土に潜っても、ぼくは大木になってやるんだという子がわりと少ないと思います。一回土に潜って、大きな木になって花を咲かせないことには意味がないというくらいの気持ちで、子どもたちを育てていってほしいと思います。ホールがそのようなことをやっていこうというのは、ありそうでなかなかない話です。これからえずこホールでやろうとしていることは画期的だと思います。本当にがんばっていただきたいです。大切な実験だと思います。

 場所もお金もたしかにいるのですが、結局は人なんですよ。子どもたちに愛情を降り注いでくれる人がいるかどうかなんです。

 継続は力です。ぜひ長く続けていっていただきたい。そうするとすばらしい指揮者も得ることができるのです。ぼくは斎藤先生の最後の弟子でしたが、とにかくこわい先生でした。しかし、すごく愛情深い方で、その愛情が伝わるので、どんなにこわくても子どもたちはついていったんですね。子どもは真実を見抜くものです。

−ありがとうございました。


円光寺雅彦/
1954年東京生まれ。桐朋学園にて、指揮を斎藤秀雄、ピアノを井口愛子の各氏に師事。1980年ウィーン国立音楽大学に留学し、オトマール・スウィトナーに師事する。1981年帰国後、東京フィルハーモニー交響楽団副指揮者に就任。1989年同交響楽団指揮者となり、1991年3月までその任を務める。1989年には、仙台フィルハーモニー管弦楽団常任指揮者に就任し、2年連続の東京特別公演を成功させた。その他、日本を代表するオーケストラに客演している。1992年にはスメタナホールにてプラハ交響楽団に客演、1995年は、ドミトリー・キタエンコから招待を受け、ベルゲン・フィルハーモニー管弦楽団に客演し多くの聴衆を魅了した。国際的指揮者として現在もっとも期待されている指揮者である。


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