UZU・UZUインタビュー17-4

小林 史真 インタビュー

2002年2月17日、世界的ハーピスト小林史真のコンサートを開催。忙しい間をぬって貴重なお話を伺いました。また、3日間にわたり地元小学校を訪れ、楽器づくりのワークショップや出前コンサートを開催。共演者であるピアニスト田村緑とアンドリュー・メルビンらと音楽を通じ楽しいひとときを過ごしました。


小林 史真 (Shima Kobayashi)
(2002年2月17日インタビュー)

小林史真(ハーモニカプレイヤー)プロフィール
クロマティック・ハーモニカという珍しい楽器を演奏するShima(小林史真)は、幼少より独学でピアノをはじめ、オルガンや聖歌隊での讃美歌などを通じて音楽に親しみ、85年より崎元譲氏にクロマティック・ハーモニカを師事。93年「FIHハーモニカコンテスト」クロマティック部門で優勝。ラジオ、テレビ出演をはじめ各地で演奏活動を始める。95年イギリスに渡り、クラシックハーモニカ界できわめて重要な位置を占めるトミー・ライリー氏に師事。同年開かれた「ワールド・ハーモニカチャンピオンシップス」でクロマティック部門第1位を獲得するとともに、全参加者の中から世界チャンピオンに選ばれた。96-97年、再び渡英しこれまでライリー氏に捧げられた多くの近・現代作曲家の作品についての知識と技術を受け継ぐ。クラシック音楽作品と1950年代から書かれ始めたハーモニカのための作品の演奏に加え、近年は絵本や童話・民話などをテキストにした音楽構成、作曲などの創作活動、演劇の音楽担当、自らの語りを取り入れた企画「ハモニカ絵本」など多岐にわたる活動を展開。NHK-FM放送やBS放送、BS国際放送、フジTV等へ出演。2000年、Fontecより初CD「Golden Girl」をリリース。2001年には絵本の為の音楽創作や照明や音響効果を取り入れた音楽空間を企画制作など幅広く活躍している。現在2枚目のCDを製作中。

点在しているアイディアを組み合わせて
クオリティプログラムを 作ってみたい。


Q:ハーモニカを始められたきっかけを教えてください。
初めての音楽との出会いは、エレクトーンでした。たしか4歳ぐらいだったと思います。電気の音が苦手で、密かに姉のピアノで遊んでました。ハーモニカに出会ったのは、13歳か14歳ぐらいに母に連れられていった崎元譲さんのハーモニカコンサートでした。最初は、音がきれいだったから惹かれたんですが、私にとっては、表現する条件がすべてそろった楽器だったんです。自分を表現したい方法というのは、たくさんあるけど、ハーモニカは、本能的にこれをやらなくちゃって思える存在だったんですね。本格的にやろうと思ったきっかけは、高校生のときにアメリカへ留学したんですが、その先で、日本人でいることとか、違う文化に接して感じることとか誰もが感じたり考えたりすると思いますが、留学から帰ってきてから、その延長で何かやってみたいと思っていたんです。そのときはほかにやってみたいことはたくさんありましが、この先後悔しないようにと考えたとき、真っ先に思い浮かんだのがハーモニカでの音楽だったんです。

村田第二小学校を訪問。子供たちといろいろな楽器で合奏をしました。

Q:イギリスに留学したいと思ったのはどうしてですか。
トミー・ライリーさんという、ハーピストとして世界的にすごい先生がいるということを知りました。その方は崎元先生の先生でもありました。人にはめったに教えない方で、すごく忙しくてレッスンを受けられるなんて考えられませんでした。あるとき、日本に演奏に来るということで、演奏が聴けると大喜びだったんですが、ふと考えたら、私がイギリスに出向けばいいんだって思ったんです。そしたら、どうしても先生に会いたくなって、手紙と自分が演奏して作った初めてのテープを送ったんです。そしたら、思いがけずこちらにぜひ来なさいって返事をいただいたんです。このときは10日間だったんですが、24時間体制でレッスンをしていただきました。もちろん泊り込みでした。それが終わったときに、先生がこの短い時間では、すべてを教えることはできないから、長い期間をとってまた来なさいと言ってくださいました。それから、日本に帰っていろいろ準備をして、95年に今度は1年間イギリスで勉強させていただきました。私は93年から演奏会を行っていたのですが、その1年というのは、人前での演奏はほとんどしませんでした。自分を出す作業よりも取り込む作業を優先したんです。
柴田小学校での様子。楽器づくりワークショップで子どもたちと水カンリンバを作りました。


Q:アメリカとイギリスへの長期の留学で、日本との違いが際立って見えてきたと思うのですが。
アメリカのときには、月並みですが強く感じるものがありました。自分のルーツというものを意識するようになりましたし、一番感じたのは、戦争のこと。日本では関心ごとの中にあまり入れたがらないことです。それぞれの現地の方の中には戦時中に日本にきていたことや、捕虜としてひどいことをされたことなどを直に聞いて、かなりショックでした。後ろから頭を殴られた思いでした。反日感情というのは思ったより多く、そして根強く残っているんです。ロンドンなんかはさまざまな国の人々がいるので、あまり感じないですが、私が行っていた村はイギリス人しか住んでいないところで、日本人だからという理由だけで受け入れられないということもありました。私が折鶴を作って幸運を願うときに作ることなどを現地の人々に話をして渡したら、日本人にもそうした面があるんだと、人々がすごくショックを受けていました。また、音楽の持っている力というものがクローズアップされるんですね。それまではネガティブだったものが、音楽を通して距離がずっと近づけるのを強く感じました。
金ヶ瀬小学校では、いっしょに作った水カンリンバで合奏とミニコンサートを行いました。


Q:今回のような学校訪問などアウトリーチ事業への取り組みは(財)地域創造との連携で、たくさん取り組まれていますが、きっかけは何かあったのでしょうか。
偶然に近いのですが、地域創造の事業を紹介されました。そして、この事業に自分のもっているものをどうリンクできるのか、いろいろ考えていました。そんな折、水カンリンバという楽器作りの方と知り合ったんです。その方は音楽を好きな人を増やすのが目的なんだと言っていました。私はそのことを逆算して考えたんです。水カンリンバのようにみんなでできる楽器というのは、以外と少ないもので、ハーモニカとの音の相性は非常によくて、ストーリー性を持たせることができるんです。この3日間、小学校をまわって子どもたちと一緒に音楽をしてみて、本当に楽しかったですね。明るくて素直に音楽を受け入れてくれましたから。


Q:これからやってみたいと思う構想などはありますか。
この2年間の地域創造のプログラムというのは、演奏家として本来ある姿をセーフモードにしておいて、いろいろ取り組んでいくといったエネルギーの使い方をしていました。普通仕事で受けたものは、失敗は許されないのが前提であって全力投球なんです。このプログラムも基本的には同じことが言えるのですが、どこかオリンピックのような要素があって、例えるとお祭りのように参加することに意義があるっていう感じがありました。その中でいろいろやってみたいと思う破片を組み合わせたクオリティプログラムを作ってきたんです。話に音楽を入れたり、ピクニックでコンサートをしたり、いろいろなアイディアが点在しているので、それをまた舞台に戻って、舞台での表現として一つ一つ完成させていきたいなと思います。それから、新しいCDのプロジェクトがあって、おそらく9月ぐらいになるかと思います。みんながよく知っている曲もあるし、ふるさとと浜辺のうたやエル・クンバンチェロ、それからガーシュインのラプソディ・イン・ブルーや並木路子さんの陽気なハーモニカ娘をやってみようと思っています。また、ハープとパーカッションなどとのコンビネーションを考えています。

Q:特に好きなアーティストや音楽はありますか。
私が亡くなったときには、フォーレのレクイエムを流してほしいなって思っています(笑)。アーティストは1人に絞るのは難しいのですが、音楽を勉強しているときにすごく影響されたのは、チェリストのパブロ・カザルスの生き方や音楽でした。

 


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