 桂歌丸さんインタビュー

高視聴率を誇る「笑点」で38年間以上にわたってレギュラー出演を続け。平成元年文化庁芸術祭賞受賞。現在、落語芸術協会会長を務める桂歌丸、落語界に入ったきっかけ、「笑点」でのエピソード、古典落語の掘り起こしへの情熱などについてお話を伺いました。
(Q えずこホール U 桂歌丸)
Q.小学校4年生で、落語家になる決心をしたと聞きましたが・・・。
U:桂歌丸 もう子供のうたから賑やかなことが好きで、小学校4年生のときに、落語家になるって決心をして…、私は祖母に育てられまして、祖母に「中学校行かない」って言ったんですよ。そしたら、「みっともないから中学校だけは行ってくれ」って。それで中学校には行ったんですが、待ちきれなくて中学三年在学中に、古今亭今輔師匠に弟子入りしたんです。
Q.そんな風に落語が好きで好きでたまらなかったということなんですが、どの辺がその魅力だったんでしょうか。
U:戦後、笑いのない暗い時代で、テレビもなく、ラジオ、しかもNHKしかない時代でした。それで週2回寄席の番組があって、昭和の名人といわれた師匠連中が出てまして、もう面白くてね。落語が好きで好きでたまらなかったですね。
噺家になるときですが、歌い手や役者なら「やってみたら」って勧める人もいるかもしれないけど、噺家の場合、十人が十人反対されてますね。うちの祖母も最初反対しましたけど、ある人に「好きなものだったらやらしたら」って言われて決心したみたいですね。
Q.そんなに好きで落語の道に入ったわけですが、最初は食べられないくらいたいへんな時期が続いたということですが…。
U:あたしは両親に縁の薄い人間で、祖母に育てられ、その祖母も噺家になって一年目に亡くなってしまった。今輔師匠や米丸さんとかに面倒みてもらいました。苦しかったですが、いっぺんもやめようと思ったことはなかったですね。自分で選んだ道ですから、やめりゃ自分自身で負けになりますから、歯食いしばりましたね。
みんな貧乏してたんじゃないかな。今何とかなってる人たちも、みんな苦しい思いしてますよ。家にいて内職もしましたし、今と違って、若者が就ける仕事なんて何にもなかった時代で、放送局で寄席の番組の鳴り物を録る時のお手伝いぐらいで、寄席の収入なんてのは微々たるものでしたからね。
Q.歌丸さんといえば「笑点」ですが、66年に始まって、今出演されてる方たちの中でこん平さんと並んでいちばん古くからのメンバーということですが…。
U:円楽さんもそうなんですが、ただ円楽さんは途中で抜けて、それから司会で復帰したんです。この三人が最初からのメンバーです。
Q.「笑点」は間もなく40年を迎える長寿番組というだけでなく、視聴率も20%を超えるというモンスター番組ですが、その長い歴史の中で、思い出に残るエピソードなどありましたら教えていただけますか。
U:いきなり問題出されて答えるわけですから、毎回大変だし、辛いといえば辛いです。それで、ああいう番組ですから残酷なニュースですとか悲惨な出来事には一切触れないようにしてます。それでよく木久ちゃんや楽さんの悪口だとかばっかり、お互いにですけれども、言ってるという人もいるんですが、一つの逃げなんですよ。
みんな黙っちゃったら面白くないですからね。だから、嫌なニュースに触れないためにそういうことを言って間が空かないようにしているんですね。そういうことを分かって下さる方もいるんですが、そうでない方の方が多い。だから、噺家の番組を見るときは洒落ということを理解してもらいたいですね。今は洒落の通じない世の中になってしまいましたからね。
何が面白くないって洒落の通じない人間ほど面白くないものはありませんからね(笑)。そりゃ、楽しいこともありますよ。でも最近みんな歳とってきましたからね。昔は飲める人はお酒、食べる人は食べ物の話とかあったんですが、今は楽屋でみんなに会うと、医者の話か薬の話(笑)。「年金笑点」って名前が変わるんじゃないかって言ってんですけどね(笑)。
Q.毎回たくさんお題が出ますが、答えが出ないときもありますよね。そういうときはやはり苦しいんでしょうね。
U:苦しいですね。それで問題を出されて、すぐにぱっと浮かんだ答えが一番面白いんですよ。考えちゃうと理屈っぽくなっちゃう。問題が出たら、枝葉でいうと葉っぱ、つまり答えを先に考えちゃうんです。それからその答えの中の問題を考えるんですよ。葉っぱが先で枝が後、でもね長年やってると、こういう問題が出たら誰がどういう答え出すかっていうのは大体分かりますよ。
一番楽なのは木久ちゃんなんだ。「やーねー」とか「ゴキローサン」とか言ってりゃいいんですから(笑)。でもそれをあたしたちがやってもしょうがない。たまに洒落でやることはありますけどね。噺家は、広く浅く何でも頭にいれとくことですね。あたしなんか家にいるときはニュースばかり見てます。ネタ仕込みですね。
Q.最近は古典落語だけに取り組まれていて、埋もれた古典落語をこつこつと発掘し、横浜・三吉演芸場で30年かけて150を超える演目を披露していますが、どんなことから始められたんでしょうか。
U:落語を残すのも、お客様をつくるのも落語家の責任。いつも同じ話ばかりしてたらお客様に飽きられちゃいますよね。埋もれてる古典落語って山ほどあるんですよ。なんで埋もれてるか。内容が残酷だったり、差別用語が入っていたり、障害者や宗教的な問題を含んでいるとか、そういったことが絡んでいるんです。
それでそういった部分を捨てちゃって、筋は壊さずきちっと通しながら現代に通用するように作り直せばいいんです。そうすれば新しい話になる。よく、真打になちゃうと何にもしなくなる人がいるんですが、それじゃあ噺家の資格はないって思うんですね。あたしの持論は、楽をしたかったら苦しまなきゃっていうこと。苦しみの後に楽がある。
じゃあ歌丸さんあんたはいつ楽になるんだいって聞かれるんですが、目を瞑ったときって答えるんです。息のあるうちは苦労したい。だってそれだけ財産が増えていくんですから…。
Q.'03年2月から落語芸術協会の会長に就任されましたが、落語界の要、あるいはまとめ役として、こんなことをしてみたいというようなお考えがあったら聞かせていただけますか。
U:若手の方にどんどん出てきてもらいたい。どんな世界でも同じですが、跡を残しておかなかったら潰れちゃいますからね。それでどんどん勉強してもらいたいですね。まだ協会内では口には出しませんが、人間に年齢があるように、話にも年齢がある。たとえば二十歳代のやつが廓話の「三昧微笑」だとか「明け烏」だとかやったって、お客様は信用しないと思うんです。
前座には前座の、二つ目には二つ目、真打には真打の話がある。そこの区別がつかない方が多いんですね。それを考えてもらいたいなと思ってます。それから、会長はあんまり口出しちゃいけないんです。みんなの意見をじっと聴いてりゃいいんです。それで、その中の一番いいことを決断する。決断するんですから責任は大きいです。
会長が余計な口出しするとワンマンになっちゃう。でもワンマンでは通らない。会長としては出来るだけ喋らない。これからは無口な落語家になろうかと思ってるんですよ。高座に上がって無口になっちゃあこりゃどうにもしょうがないですけどね(笑)。
桂歌丸 プロフィール
神奈川県横浜市生まれ。昭和26年「桂米丸」へ入門。師匠の前名である「古今亭今児」を名乗る。それから三年、二つ目昇進。「桂歌丸」と改名。昭和43年真打昇進。平成元年には、横浜市制100周年にて市民功労賞受賞、文化庁芸術祭賞受賞。その後、各文化賞を受賞。平成11年には社団法人落語芸術協会副会長に就任。5年後には、同協会の会長に就任した。平成16年に浅草芸能大賞受賞。
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