UZU・UZUインタビュー20-06
   
   


























幅広い世代にカリスマ的人気を誇る美輪明宏が、2003年7月25日、宝くじ文化公演による音楽会「愛」のため来館。 これまで歩んできた道、世相を切る辛口のお話。

そして、「愛」をテーマにした人の生き方への思いなどを伺いました。



Q: えずこホール 、 M: 美輪明宏さん)


Q. ホールに来られるときご覧になったと思うのですが、この地域、そしてホールの印象はいかがですか?

美輪明宏 とてもモダニズムで、田舎に突如としてシャングリラが現れたみたいな感じで不思議な気がしましたよ。

ホールの外観については、コンクリートの打ちっぱなしの場合古くなるととても醜くなるんですね。それで私はコンクリートの打ちっぱなしはやめましょうっていう運動してるんですけど。

ここの場合は曲線で仕上げられているのでまだいいですね。それと周りに緑がいっぱいあるからいい。それから劇場の中はアールデコになっていて、出入口の枠や天井の明かりの装飾がとてもやさしくていいですね。

劇場っていうのは非日常の空間なんです。だから一歩入っただけでお金が取れる空間でなければならないんですよ。ここは楽屋のドアにも装飾が施してあっていいですね。




Q. 子どものときに長崎で被爆されて、それはとても鮮烈な体験だったと思うんですが、そのときの話を少し聞かせていただけますか。

M: 私の「紫の自叙伝」という本にも書いていますが、まあとにかく思い出したくもない記憶です。ほんとに地獄ですねあの恐怖は…。

原爆は実験のために使われたわけですが、何で私たちが実験道具にされなきゃいけないのか、ものすごく腹が立ちますよ。

それで原子爆弾ではないけれど、相変わらずアメリカはイラクをはじめ世界中で戦争して歩いてる。あのアングロサクソンの人殺しの習癖っていうのは直らないもんだろうかと思います。

それに、あれだけ鬼畜米英って言ってた軍国主義者が戦後アメリカにぺこぺこして、日本はアメリカの文化植民地になっちゃってる。また今度は自衛隊を海外へ派遣するっていうし、首相もマスコミも悪いですが、それを選ぶ国民も悪いですよ。

まるで人気俳優かアイドルを選ぶみたいに、記事になりやすいからというだけで、総理や知事を選ぶっていうのはこの国だけなんですよ。チャイルディッシュでほんとに民度が低い。

それから、原爆のときつくづく思ったのは、日本人が日本人を殺したんだということ。精神性だけで、体育会系の根性みたいなところだけ突出して、理知とか知性とかが欠如していたんだと思います。

ところがそういった体質の人がいまだに政界にのさばっているということは許せないし、そういう人に投票する国民がいちばん悪いですね。



Q. 子どものころからフランス映画をはじめたくさん映画を観て、14歳でシャンソンに出会ったわけですが、多感な時期に映画やシャンソンと出会ったことは美輪さんにとってどんな思い出になっていますか。

M: 家の隣が映画館で、フランス、アメリカ、ドイツ、ロシア映画、もちろん日本映画もかかってました。とにかくあのころの映画はロマンティシズムに満ちていましたね。

ところが今の映画はアメリカのならず者映画の文化の影響を受けて、上品さとか叙情的なものはなくなってしまいました。

当時の映画に出てくる俳優、女優はエレガントで着ているものも素敵でしたね。そして映画の中の音楽も、シャンソンだけじゃなくてロマンチックで美しく上品なサウンドなんですよ。 そういうものが多感な時期に身の回りにあったということは、とても幸せでした。

そのことを、今私は若い人たちに言って歩いてるんですよ。それでよく、どうして私のファンには若い人たちが多いんですかって聞かれるんですが、それは若い人たちがそういう上品でロマンチックで美しいものを求めているからだと思います。

今こんな世の中だからそういうものを求めているのに、提供する側が下品なならず者文化ばっかり提供してるじゃないでしょうか。






Q. 16歳で上京。17歳でシャンソン喫茶「銀巴里」で歌手としてデビュー。そのころさまざまな経験をされ、作家の三島由紀夫さんにも出会われてますが、三島さんはどんな方でしたか。

M: 青年作家で、まだ全国的には有名になる前でした。「仮面の告白」が川端康成さんに認められて、「禁色」が評判になったころ紹介されたんですが、昔ながらの背広にネクタイというまともな格好で、良家の息子さんという殻から一歩も踏み出ることができないという感じでしたね。

彼は私を見てとてもカルチャーショックだったようですね。私はそのころそういう価値観をぶち破ってましたからね。それが新鮮で、その価値観を自分の中に取り入れようとして、またさらにそれを拒否しようとして相克してるのが見えるんですよ。それがまた面白かったですね。




Q. 三島さんは、美輪さんをモデルに小説も書いていますが、どのように読まれましたか。

M: そのころ私は、三島さんに対して残酷なほど言いたいこと言って、三島さんも私に対して田舎モダンだとかいろいろ言ってましたが、たぶん私に対してひじょうに残酷な一面を持ってる少年だという印象を持っていたんじゃないでしょうか。

それから何年か経って、「はいこれ」って言って本をくれたんです。その本の中に「孔雀」という短編が入っていて、「君がモデルだよ」っていうんですよ。私は「私こんなに残酷じゃないわよ」って言いましたけど(笑)。




Q. その数年後「ヨイトマケの唄」が大ヒットするわけなんですが、美輪さんにとって「ヨイトマケの唄にはどんな思い出がありますか。

M: 私は九星術でいうと二黒土星という星なんです。それは大地の母、つまりお百姓のお母さんの星。畑の土として、自分を犠牲にしても人に栄養を与えて人を育てる星なんですね。

ですからああいう女性労務者の歌を作るというのは、私のDNAに組み込まれていることで、必然的に生まれたということなんです。


それから、小さいころうちが富裕だったことに罪悪感を持っていて…、というのは、家は金融会社もやってて、貧しい人が質草としてお布団まで持って来たりするのを見ると、もう涙が出るくらい気の毒でね。

また、色町のお風呂屋さんなんかにはいろんな人が出入りしている。そういう人たちを見て、どうしてそういう人たちの歌がないんだろう。お金がないそういう人たちにこそ心の慰めとなるような歌というか文化が必要なんじゃないだろうかと、小さいころからずっと思ってたんですね。そういうことが背景というかヒントになってあの歌が生まれたということですね。







Q. その後、寺山修司さんと出会い、何本か演劇に出演されました。寺山さんはあの時代の最先端を駆け抜けた異才だったと思うのですが、どんな人でしたか。また、そのころ70年代は熱い時代で価値観も大きく転換し、新宿は新しい文化の坩堝だったようですが、その渦中でどのように感じられてましたか。

M: 彼と出会ったときは唯の純文学の詩人で、世の中が彼をそれほど知らないころでした。いろいろ賞などももらってましたが、詩とか短歌とか狭い世界でしょう。とても地味な存在だったんですね。それが彼は嫌だったのね。

それから、天井桟敷を旗揚げして、そこからポピュラーになっていったんですが、そのころというのは、天井桟敷だけじゃなくて、蜷川君が同じ新宿でアングラの芝居を初めて演出したり、花園神社で唐十郎が赤テントを旗揚げしたり、串田和美が黒テントをやったり、鈴木忠志が後の早稲田小劇場を白石加代子とやったり、まだ無名の横尾忠則が舞台美術を担当し、コシノジュンコが売り出す前で衣装やってたり…、そいういものが一気に湧き上がって、新宿自体が、パリのサンジェルマンデプレやニューヨークのグリニッジビレッジみたいに、一つの文化圏だったんですよ。

今の新宿は歌舞伎町文化になってしまって芸術のげの字もないけれど。あのころは、学生運動、フラワーチルドレン、ヒッピー文化…、ほんとうに面白い時代でしたよ。

そのころ、ビートたけしがジャズ喫茶でボーイさんやってて、そこに行ったら、初めて出会った芸能人が私だったそうで、さらにたまたま彼の尊敬してる人が私の知り合いだったこともあって、自分も教養を身につけて芸能人になるって決めて、その足でお母さんに学校辞めたよって言いにいったんですって(笑)。

だから、学校辞めたの私のせいだって(笑)。そんなふうに隠れたところにいろんな人がいたの。三越の裏の風月堂には、美大生や詩人やヒッピーやらが入り乱れて、一晩中行ったりきたりしてた。楽しい時代でしたよ。

それで、そのころ黒蜥蜴の映画を撮るとき、松竹はオーソドックスな大監督を推薦してきた。でも、私は、もっととはじけた人が欲しいと注文したんです。そしたらまだ無名の深作欣二を連れてきた。で話を聞いてみてこれは化けるなって直感して、それで彼でいこうっていうことになったの。そういうふうにはじけた人たちが潜在的にたくさんいたの。

社会全体がエネルギーに満ちていた時代。フォークの文化まではよかったけど、その後がいけない。そのあとがめちゃくちゃ、アメリカの凶悪なスラム文化になってしまった…。




Q. 松岡正剛さんとの対談で、戦後日本は経済の利便性と機能、数字とお金だけが神様になってしまい、犯罪しか似合わない文化になってしまった。と話されていますが、どうしてそうなったとお考えですか。

M: それが私のいちばん言いたかったことなんですが…、つまり、犯罪の似合う建物、ファッション、音楽、国家。

そういったものはいったい何なのかっていうと、戦後アメリカから文化を輸入するとき、中産階級以上の厳格な文化ではなく、プアアメリカンと呼ばれる人たちの文化を全部輸入しちゃった。それはマスメディアが悪い。それが人の価値観を変えてしまった。

ボロボロの服、コンクリートの建物、下品な言葉、音楽、映画…。それらすべてが犯罪を生み出す要因になってる。

そういう文化を入れちゃいけないんですよ。 シンガポールにリー・クワンユーという首相がいて、彼は一切そういう文化を輸入しなかった。だから東南アジアでいちばん模範的な国になったんですよ。このままいったら日本は毬を転がすように犯罪国家になっちゃいますよ。

だからあらゆる企業が気がつかないといけない。少女売春の話でも、今小学生をターゲットにしてる。企業がやっちゃいけないことをやって、マスコミがそれを煽り立てる。まず大人たちが襟を正さなくちゃならないのに、モラルも何もなく、儲かればそれでいいという風潮。物欲と性欲と食欲だけ。今に自分たちが自分の子供に殺されます。







Q. 美輪さんのホームページのトップにある言葉、「人間は肉体と精神とでできています。肉体を維持するためのビタミン剤や栄養補助食品は過剰なくらい出回っているし、それらのものに関しては、あなた方もとても敏感に反応する。

なのに、もう一方の精神を健やかに維持するものに対して、あまりに無頓着です。では、精神におけるビタミン剤や栄養補助食品に匹敵するものは何か?それこそが「文化」なのです。」とあります。

まさにそのとおりだと思います。そして、今日の音楽会のタイトルは「愛」。この二つが美輪さんの生き方そのものを表しているように思うのですが…。

M: 物でも人でも肉体に対する愛情でも、それは相手をいたわる、自分より相手を思うってことでしょう。だから、政治でも、企業を営むにしても、愛から出発してればこんなふうにならないんですよ。

愛が全くなくて、ただ儲ければいい、自分の利益だけでいいっていうふうになってるからこんなふうになっちゃったわけでしょう。物一つ扱うんだってこんなのどうでもいいやと思えば乱暴に扱うし、素敵なものだと扱えば、物も生きてくるし、仕草も優雅になってくるし、それを見てれば気持ちがいいですよね。

だから物一つの扱いにしても愛があれば変わってくるわけです。お店を経営するにしても、ホールを運営するにしても、人をいたわる思いやるというところから発想した、建物なりサービスならそこには愛があるでしょう。そうすると全体が人間性を取り戻せるんです。愛と美意識があればね…。







Q. 横尾さんとの対談などを読みますと、霊的にとても深いものを感じます。また「私のメッセージは昔から一貫してるんです。

それは常識よりも真理を信じなさいということ。真理を規範に生きていれば、何も動じることはないんです。」ということも話されていますが、美輪さんの霊的な直感とこの言葉にはとても通じるものを感じるんですが…。

M: 私のメッセージが的確に伝わってるようで、貴方みたいなそういう方ばっかりだといいんですけどね…(笑)。人が生きていくうえで何を目安にして生きているかというと常識でしょ?その常識が狂ってたらどうするんですかっていうこと。

みんなぐちゃぐちゃな物差しを使ってるわけですから、そんな物差し捨てちゃいなさいっていうこと。そして、新しい物差しに変えなさい。それが真理ですよということ。じゃ真理は何かというと、永久に変わらないもの。

たとえば聖書でも、550年の宗教会議のときに為政者の都合のいいように書き換えられた部分もあるようなんですね。それを見破る知恵を磨いておかないと、宗教書にこう書いてあるからと鵜呑みにしてるとえらい間違いを犯すことになるんですね。

宗教書というのは常識なんです。真理じゃない。一つの宗派のものだけをを読むのではなく、いろんなものを片っ端から読んでみて、そこから自分でエキスを探り出すっていうことをしないと後で怖いことになりますよね。エキスを取り出すのはあなた自身です。






美輪明宏プロフィール

1935年、長崎市生まれ。国立音大付属高校中退。17歳でプロ歌手としてデビュー。 1957年、“メケメケ”が大ヒット、ファッション革命と美貌で衝撃を与える。

日本におけるシンガー・ソング・ライターの元祖として、“ヨイトマケの唄”他多数の歌を作ってきた。

1984年フランス、1987年再度フランス・スペイン・ドイツに招待されコンサートツアーを行う。 ル・モンド、リベラシオンを始め多数のメディアに紹介、絶賛される。

1967年、寺山修司の演劇実験室・劇団天井桟敷旗揚げ公演『青森県のせむし男』『毛皮のマリー』に主演。

1968年、三島由紀夫に熱望され『黒蜥蜴』を上演、空前の大絶賛を受けた。 深作欣ニにより映画化、ニューヨーク・タイムズにも大々的に取り上げられ、ニューヨーク・パリを始め世界的ヒットとなる。

1993、94、97年には「黒蜥蜴」を再演、1994、96年には「毛皮のマリー」を再演し、話題になる。 1997年秋、13年ぶりの「双頭の鷲」再演で、読売演劇大賞優秀賞を受ける。 また、映画『もののけ姫』における出演に対して、東京スポーツ新聞社主催映画大賞助演男優賞を受ける。

主な著書に『紫の履歴書』、『ほほえみの首飾り』(以上、水書坊)、 『人生ノート』(PARCO出版)。

 



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