2005年歌手活動40周年を迎え、絶大な人気を博している歌手 加藤登紀子さんによるアコースティックライヴを開催。超満員のなか、さまざまな曲を熱唱。多くの反響を呼びました。
旅行や環境問題など歌手以外にも関心を持つ加藤登紀子さんにお話しを伺いました。

(Q:えずこホール、K:加藤登紀子さん)
Q:音楽好きの一家に育ち、お父様は音楽関係のマネージャーやディレクターをしていて、お父様が応募した日本アマチュアシャンソンコンクールで優勝したのが、デビューのきっかけということですが…。
K: 1回目のコンクールは父が応募して4位で、2回目のコンクールで優勝したんです。
1回目で優勝してたら歌手になってたかどうか分からないですね。というのは、2回目コンクールまでの間に本格的にシャンソンを聴いて、優勝してもしなくても歌手になるんだという気持で臨んだんです。
1回目のときはピアフを歌って、君のような若い子がピアフは歌えないでしょうって言われたんですが、2回目は父と作戦を練って、誰も知らない可愛らしいフレンチポップスを歌って優勝しました。
Q: それが「ジョナタン・エ・マリー」という曲ですね。
K: たぶん、審査員はその曲を誰も知らなかったんじゃないでしょうか。私は、いっぱい聴いた曲の中からその曲を選んだんですが、選曲は良かったと思います。
Q: 最初にシャンソンを選ばれた理由は?
K: そのころ、けっこうはやってたんですよね。アダモとか、岸洋子さんとか、越路吹雪さんとか、それから私は中学校のころからダミアを聴いててすごく好きで、家では日常的にシャンソンを聴いてましたから、ほかのジャンルはありえなかったですね。
Q: 大学4年生のときに正式にレコード会社と契約して「誰も誰も知らない」でデビューということですが、そのころはずっとシャンソンを歌っていこうと考えていたんですか?
K: それがね。コンクールで優勝するまではシャンソンを歌うものだとばかり思ってたんですが、レコード会社に入社して、最初のディレクターが私に鉛筆とノートを渡して「あなたが自分で作りなさい」っていうんですよ。
そのころ、シンガーソングライターって加山雄三さんぐらしかいなくて…、でも絶対自分で書くべきだって周りからも言われて…、そのころすぐにレギュラー番組の司会を任されたんですが、そのディレクターから毎週1曲作れって言われて、私は詩も曲も何にも作ったことがなかったのに、両方からお尻を叩かれて始めたんです。
彼らはシャンソンじゃ売れないので、当時でいうところの流行歌を歌わせようと最初から思っていたようですね。それで、びっくりして慌てて心の中ではかなり分裂を起こしました。
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それまで、プロなら最低10曲は曲がないと仕事にならないっていわれて、一生懸命レコードを聴いて、自分でお金を出して10曲分のシャンソンのアレンジと訳詩を発注して準備したんですが、全く使うことはありませんでした。
それは私の中の大きな勘違いで…、でも私は気持の切り替えが早いほうで、「分かった流行歌手になればいいのね」という気持にすぐなりました。
だから、シャンソン歌手としてデビューしたのにシャンソンのアルバムを出してない。やっと出したのが72年の「美しき五月のパリ」です。
それで88年にカーネギーホールでコンサートを開いたとき、沖縄、韓国、アジアの歌、そしてメリーホプキンやクルトワイルの歌を歌ったんですね。
それでシャンソン的なものはけして歌ってないのに、翌日のニューヨークタイムスに、フランス語で「シャントゥーズの声」だと興奮ぎみに書いてくれたんですね。それはシャンソンだと…。
それまで、歌手としてのスタートの経緯があって、シャンソン、フランスに対して何か自分の中でブレーキをかけてる部分があって、なかなかフランスに行けなかったんですが、それがひとつのきっかけになって、89年にフランスに行きました。
その年はフランス革命200年の年で、向こうにいる日本人たちから、「あなたはシャンソン歌手でしょ。シャンソンのコンサートやってよ」って言われて、それで89年にフランスで初めてコンサートを開きました。
それから5年くらいフランスにこだわってきたんですが、物作りにきめ細かにこだわる姿勢、クリエイティブなのもに突き進むことがほかの何よりも尊く最上級のことだという、フランス人のただならぬ情熱に触れて、自分の歌の作り方や生きる姿勢を再確認しました。
40年歌手として生きてきて、シャンソン、アジアの歌、自分のオリジナル、そういうジャンルの違いはだんだん消えていって、私の中に根を張って、私が歌わなきゃっていう歌だけが残っていくんですね。
そうして残った歌は、南米の歌であろうと韓国の歌であろうと、フランスの歌であろうと、すべていいわけです。狂おしくいいわけです。でもそれには理由があって、その理由の中に共通項があるわけです。
「百万本のバラ」も「さくらんぼの実る頃」も、いい歌は世の中にたくさんあるのに偶然私のヒット曲になった。それは世の中の流れ、人の心が、私の心を読み取っているというか、新しいことが始まろうとする時代の中で心を支えた歌というか、歴史の歯車を支える歌になったんだなあと思っています。
それで、この歌は何に代えても歌っていかなきゃと思った歌がヒット曲になったというのはものすごくラッキーだったと思います。それが40年間歌ってきて一番うれしかったことですね。
Q: 旅行がお好きなようで、70年代から、中近東、中南米、シリア、パレスチナ、インド、キューバなどへひとり旅あるいはプライベート旅行をされていますが、どんなところが好きですか。どんな歩き方をされ、どんな発見がありましたか?
客席に降りて会場を盛り上げる |
K: 最初に中東に一人で行ったときは音楽だったんですね。日本では聞けない音楽が聴きたくて行ったんですが、面白いのはそこで南米の音楽に出会って帰ってきたこと。
日本を一歩出たらどんな国でも音楽が暮らしの中に生きてるんです。
ああ、みんな暮らしながら音楽をしてるんだなあって、とても開放された気持になりましたね。
それで、私が好きなのは現代文明に侵されていない伝統的な国々。
そこでいちばん感じたのは、先進国っていうのはみんな新しい国で、それは先へ進んでいるのではなくてあとから始まった国、だから先進国っていう言い方はおかしいということ。
それで私が好きな伝統的な国々は発展途上国って呼ばれている。これはすごくおかしい。音楽は歴史の古いもので、私たちはその古い土壌の上に新しい音楽を作っている。
でも、日本ほど古い音楽と新しい音楽が切断された国はない。でも、みんな沖縄の音楽が好きだったり、日本人のアイデンティティはやっぱりあるなあとは思いますね。
Q: それらの中で、具体的にどのへんの音楽が好きですか?
K: 中央アジアも好きだし、キューバも本当にいい。共通しているのは、みんなが音楽を楽しむ姿がすばらしいということ。生きる力が沸いてくる。
音楽をすることが、もう生理的な営みなんですね。
Q: 1972年同志社大学の全学連委員長藤本さんと結婚し話題となりましたが、藤本さんは早い時期に学生運動から離れ、環境問題に深い関心を持ち、循環型社会の実現に向けた活動を始められています。
お二人とも同じような感覚をもたれているのかなと思うのですが、政治運動からグローバルな視点に立った生き方にシフトしたきっかけといいますか、どんな風に変わっていかれたのでしょうか。
K: 彼のほうが早かったですね。学生運動の人ってオルグじゃないけど、自己アピールする人が多いんですが、彼はほとんど喋らず、かえって、映画や文学の話をしたりすることが多かったですね。だからといってすぐ環境問題ではなかったんですけど…。
当時、彼は上部構造よりも下部構造、つまり農業、暮らし、風俗とかいったことのほうが大事だという考え方をもっていて、最初に学生運動としてやったのはライの人たちの救援活動で、そこで彼は指導者としてスターになってしまい引っ込みがつかない状態になってしまったんですね。
だから、学生運動ががたがたになったときに一目散に逃げ出したという感じでした。ですから、学生運動の前にコミュニティづくりへの志向ということがあったということですね。
Q: ということは全学連委員長になったことのほうが奇異なことだったんでしょうか。
K:
彼は楽しんだと思うし、意義のあることだと思っていたと思うんですが、準備万端整わない状況で戦っていたという認識があって、僕が日本の社会を変える運動をするならマルキシズムには頼りたくなかった。僕にとってのマルキシズムは大乗仏教だって言ってましたね。
Q: 現在まで、60枚以上のアルバムと多くのヒット曲を世に送り出してきました。それと同時に、たくさんのミュージシャンと共演。
流行にのるということではなく、しかし一味違った話題性のある音楽活動をされてきていると思うのですが、どういった観点からそれらを選んで活動されているのでしょうか?
K: たくさんのミュージシャンとの出会いは偶然ですね。でも偶然にしてはうまくいっているなあって思ってますけど。
ただアフリカについては思いがありました。20世紀が終わるとき、暗いことばかりがあって、光が見えるのはどこかって考えたらアフリカだと思ったんですよ。
それで人づてに紹介してもらって行ったんですが、どきどきしました。もう賭けですよね。でも初めての出会いでものすごくすばらしい人たちに出会えたんです。
Q: 「TOKIKO SKY 蒼空」の録音のときですね。
K: もう前もって私のことを知ってるような、会って話をしただけで「あなたは、いままでいちばん自分にふさわしいキーで歌ってきましたか。それを見つけるのが大事だね」と言ってくれて、彼は全部の曲のキーを決めてきたんですね。
私の話し声からキーを拾ったんでしょう、きっと。
何か、私の前に道を拓いてくれた先導者のようでした。もちろん、南アフリカでいちばんすばらしいプロデューサーだったんですけれどね。
Q: 南アフリカに行ったきっかけはポールサイモンの「グレースランド」でしょうか。
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K: そう、それが大きなきっかけ。そのグレースランドのリーダーにコーディネートしてもらったんです。
その彼がいちばん信頼しているプロデューサーとして紹介してくれたがビクターマソンド。
ポールサイモンは覆面をして黒人街に入ったそうです。あのころはまだアパルトヘイトの真っ最中でしたからね。
それで私が録音したのもポールサイモンが録音したスタジオと同じスタジオなんです。
Q: そうですか。「グレースランド」は音楽もすばらしかったですが、ポールサイモンがあそこに行ってやっとこともすばらしかったですね…。
WWFジャパン(世界自然保護基金日本委員会)の評議員や、UNEP(国連環境計画)親善大使に選ばれていますが、どんな活動の中でどんなことを感じていますか。
K: どこでもそうだと思うのですが、伝統の風俗、地域のオリジナリティが残っていること。それが唯一の望み。それが、自然が残るかどうか、音楽が残るかどうか、コミュニティが残るかどうかの鍵です。
それで、どこに行ってもそうなんですが、商業主義に侵されていない、拝みたいくらいにすばらしい純朴な人たちが、温暖化や、環境破壊のせいで、いちばんの被害者になっているということ。それが今いちばん深く感じ考えていることです。
たとえば、私が住んでるマンションは築40年でもう廃棄物なんですが、昔の文化は40年なんかでは終わらない。5000年経っても生きている文化もある。それらにはまだ生きる力がある。
私たちの今の文化は全部寿命が短い。今の文化は、先端の文化かも知れないけど未来ではない。それについてはとても辛い思いを抱いてます。
(2005年03月14日開催 宝くじ文化公演加藤登紀子コンサート えずこホール楽屋にて)
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