
(Q:えずこホール、A:天児牛大さん)
Q 75年に山海塾を立ち上げられ、そのすぐ後の80年に渡仏してパリを拠点に活動をはじめられたわけですが、何かのインタビューで「背水の陣として渡仏した」というような言いかたをされていましたが、そのときはどのようなお気持で行かれたのか、どんな感じで過ごされたのか、その辺のところからお伺いしたいと思うのですが。
天児さん 70年代というのは今とは状況がだいぶ違ってまして、自分たちで劇場を借りて自主公演をするというのがメインで、今回のように公共ホールが主催で公演することはあまりなかった。
地方公演では現地で実行委員会を作っていただいたり、大学の学園祭に行ったり、という形で活動していました。70年代後半に東北大にも来たことがあります。
そのころ国内の舞台だけで活動を維持していくということが厳しい状況で、そんな中、フランス大使館の当時の文化参事官から、フランスでやってみないかというお誘いがあったんです。前々から海外でやってみたいという気持はあったのでトライしたということです。
事前に多少のリサーチはしましたが、フランスが実際にどういう風に文化を支えているのか、というようなことをきちんと把握して行ったわけではありませんでした。
しかし、行ってみるとそこにはフランス独自のアートを支える機構と劇場のあり方がすでに出来上がっていて、それらに救われたところがありました。また、そのときもっていった「金柑少年」という作品が評価され、突破口になって続いてきたということですね。
最初は、作品をきちんと紹介することだけに集中してなんとか切り拓いていこうと、ほとんどが劇場と宿との往復でしたから、「あっ、そういえばここはフランスなんだ」っていうことや、その文化的な香りを意識するのは、行って少し経ってからのことです。
そこからさまざまな文化の違いを発見していくことになるわけです。丸1年滞在し、招待を受けて、ヨーロッパ各地とメキシコでも公演しました。まあ、何とか1年やれたということでしょうかね。
Q. その後ずっとパリの市立劇場との共同制作ということで2年に1度ずつ新作を発表してきたわけですが、そして契約はその都度シーズンごとの契約ということですが、どうして25年にわたって契約を続けてこれたとお考えですか。
A. まず「金柑少年」が評価され、パリの市立劇場から「金柑少年」と新作の2本立て上演のオファーを受けたのが81年で、新作については共同プロデュースという提案。この条件は当時の日本の状況で考えるととてつもなく素晴らしいわけです。
契約はシーズンごと(長期契約ではない)、ディレクターのチョイスで2年に1回、新作と旧作の2本立てでということでやってきました。新作発表の期間中に次のシーズンの公演をどうするか、という提案をいただくかいただかないかで、継続かおしまいか決まるわけです。
何故続いてきたのかということですが、それはその都度何とか乗り切れたということですね。劇場側からは、作品の内容や創作方法について、こうしてほしいというような要望は一切なくて、結果論だけ。フランスの文化や観客に合わせろということもなく、私自身が何を模索し何を提示できるか、それだけで劇場側は判断してきたということです。
最初は物珍しさでもいいと思うんですが、その中で大切なのはクリエーターとして独自性を出せるかどうか、追求していいけるかどうか…。自分としては何とかそれを継続してこれたとしか言いようがないですね。
劇場側が20年以上にわたって共同プロデュースの提案をしてくれたことは素晴らしいことですし、私としても、それに何とか応えてこれたということはとてもうれしいことです。次は2008年の春にオファーが入っていますから26年ということになります。
Q. 舞踏は日本独特というか、東北の土着性の要素の強い身体表現といえるわけですが、どうして舞踏が世界で受け入れられ、評価されたんだとお考えですか。
A. 舞踏というと、東北の土着性というようなことが一般的に言われているんですが、私は、土方巽さんが東北の土着性に行き着く前のコンテンポラリーな作品や、実験的な作品などもぜひ知ってほしいと思うんですね。土方さんはそういうプロセスを経て東北の土着性、身体性に気づいていくんですが、それは比較的後半のほうだと思うんです。
それからもう一方に大野一雄さんがいて、大野さんはどちらかというと精神的な一つの祈りといったものを追求していた方です。だから東北の土着性という要素だけが舞踏のすべてではないということ。
私にとっては、70年以前の過程にはとても興味があって、大野さんにしろ土方さんにしろ、自分を開いていくという意味において、対話や葛藤の中から、大野さん土方さんの舞踏が立ち上げられたということ。そのことを思うと、私とはジェネレーションも体験も違いますが、私にとって自分の舞踏を立ち上げるということが大切だと思うわけです。
身体性を模倣していくことと同時に、自分の身体性を立ち上げるということが必要だと。そう思うきっかけとなったのは80年にフランスに出ている間、丸1年日本の動向や、日本の内部にあった触発が私にとって一旦切れてしまった。そのことが自分にとっての舞踏とは何かということをもう一度問ういい機会になったということですね。
さらに、フランスで異なった文化を浴びることで、「違い」と、もう一方にある「共通すること」が自分の中でゆっくりと立ち上がってきた。差異と普遍性がモノを創っていく上で自分を後押ししてくれているということですね。
Q. 今お話のあった差異と普遍性という言葉と同時に、重力との対話ということもいろいろなところでもお話されていますが、こういったイメージを意識するようになったのは、日本を出てパリで活動されるようになったことが影響しているのでしょうか。
写真:2006.9.2えずこホール |
A. 以前からそういう意識をもってはいたんですが、異なったものと出会うことによって、ゆっくりだけれども、自分の中で醸成、あるいは醸造されていったというのが正確だと思います。
重力との対話についても、自分の中で身体ということを考えるときに、文化や人種が異なっていても、寝るところから立ち上がる過程や、赤ちゃんが立ち上がるまでのプロセスは全く同じなわけです。そう考えると身体というのは異なりもあるけれど、共通しているところもたくさんある。
西欧的な舞踊は重力からの開放であったり、重力へのレヴォリューションであるといった言われ方をしていますが、たとえば先ほど言った東北の身体といったときには、重力の重圧であるとか、否めないものとして引き受ける身体であるとか、押さえつけられるそのときに見えてくるからだが背負った風景の異なりであるとかが問われてくるわけですね。
私にとって重力との対話とは、重力を受容すること。別の言い方をすると、動きというのはテンションをかけることと、抜くこととがあり、その双方がデリケートに反映される、そういうあり方を探ってきたということです。
差異と普遍性で言えば、重力は普遍的にある問題で、しかし表現の仕方は異なっているわけで、常にこれらが自分の中にあるということですね。
Q. 今のお話を伺ってて、もともと身体性から始まった舞踏が、そのフィジカルな面と宇宙全体の大きな流れとの調和を目指しているような印象を持ったんですが、何かそのようなイメージをもっているのでしょうか。
写真:2006.9.2えずこホール |
A.
天児 それは特に自分で意識してはいないんですが。たとえば感情の問題で言うと、絵画衝動、焼き物や人形や道具を作る造形に対する衝動とか、それらは基本的に世界中どこにでもあって、それぞれの地域でそれぞれの人間が自然と対話することによってそういう衝動を残したり焼き付けたりしてきてるわけですが、全く違う文化の中にいても表現形態としては似通っている。
それは海外に出て、絵画やプリミティブな文化などに接することによって実際に体験する機会があったわけですが、それが外国で、あるいは日本で作品を発表していく上で、共通するものとして自分の背中を後押ししてくれているということですね。
Q.
今回のえずこホール公演は、東北公演としては16年ぶりということで、初めて山海塾の公演を観る方も多いと思います。それで白塗りと剃髪ということについて、その意味と天児さんなりの思い入れについてお伺いしたいのですが。
A. 白塗りというと、海外でも歌舞伎の白塗りというようなことが言われたりするんですが、歌舞伎やお能のマスクが白だというのにはメタモルフォーゼとか、死という問題があって…、それは死を擁護しているのではなくて、たとえば何故死ぬと骨の色は白くなってしまうんだろうとか、これは巨大な謎ですよね。多分そういったこととの関わりがあると思うんです。
それから世界のお祭りとか儀式にも必ず白が使われているんですが、そこにはある部分ピュアであるということと、ある部分忌避したいということとが関わっていたりするわけです。日常の中で人は個々人それぞれ個性をもっているわけで、一旦その個性を消すことによって人という形を前面に出したい、身体の形を出したい。衣裳はつけていますが。一旦そこに立ち返ってそこから表現したいということですね。
まあ、白塗りは私が始める前から舞踏のジャンルにはあったことで、自分としてはプリミティブな部分も含めて、今言ったような定義づけをしています。
なおかつもう一つあるのは、光の問題なんですね。白というのは光をひじょうによく反映させる色であるということ。舞台上で作品を作っていく場合、光と、身体、動き、表現ということでいうと、白塗りというのは光をデリケートに反映できる素晴らしい色だということです。ですから白塗り剃髪はシンプリシティという意味において最大限に素材を生かすことのできる色と形ということですね。
Q.
山海塾という名前の由来ですが山海経(せんがいきょう=中国の古い地理書。神獣、悪鬼、珍獣、奇人がたくさん出てくる)からとられたということなんですが…。
A. 駱駝艦にいて個人活動を始めようとしたころに、麿さん(大駱駝艦主宰)と話をしていた中から出てきた名前です。
山海経のことももちろんあるんですが、日本をみたときに山と海があり、海に囲まれて迫っているようなジオグラフィックな立場をもち、それから山海の珍味じゃないけど誰が参加してくるか分からないというようなイメージから山海と…、塾というのは大きな組織や、グループじゃなくて、少ないメンバーで発揮できることをやっていきたいという表れです。アトリエみたいなものですね。大上段に構えるのではなく、ワークショップをこつこつやって積み重ねていくような。そういう意味で当初から塾という名前にしようと思っていました。
Q. 天児(あまがつ)さんのお名前にも深い思い入れがあるように思うのですが…、天児とは幼児の傍に置く人形のことで、厄災をその人形に負わせ子どもを息災にするというような意味ですよね。どのような思い入れでつけられたのか教えていただけますか。
A. これも麿さんとの話の中から出た名前なんですが、今おっしゃったように、天児というのは古語で人形のことですよね。人形というのは人型(ひとがた)のことで、それは踊り名として素晴らしいなと思って、変わった名前ではあるけれどそれでいこうと決めました。
牛大というのは、私が丑年の生まれなものですから、冗談半分で牛大でいこうっていうのがそのままついたっていうことですね。
Q. 今回上演の「ひびき」という作品ですが、幼児が立ち上がってからの自然な動きとかいろいろな要素、表現が入っているようなんですが、ご自分なりの思い入れといいますか、コメントをいただけますでしょうか。
A. 「遥か彼方からの−ひびき」、生命の連続性にたいする響きというような意味合いなんですが、自分の身体を考えたときに、両親がいて、その両親にも両親がいて、ひじょうに気の遠くなるような時間を経て、今自分はここにいるということがある。
一方で、その身体を個としてみた場合、初めがあり終わりがある。これは非連続ですよね。そういった意味で生命の連続性の中にいると同時に非連続のものでもあるわけで、このふたつをはらんでいるのが自分の現在の身体ではないかと思うんですね。
写真:2006.9.2えずこホール |
なおかつ、生まれてくる過程で個体発生が系統発生を促すというのかな、母親の胎内でのプロセスというのは、卵子が分裂するところからいくと、魚類とか両生類から動物に変わってそれから人の形に変わっていくということが示されていますよね。
それは自分の体そのものが数万年のプロセスを経て生まれてきているということで、そこから初めて重力との対話が始まる。
そう考えると、すさまじい時間や、進化のプロセスを自分自身が受け止めてしまっているということ。そのことに対するオマージュというか、そういう意味合いを込めて「ひびき」という作品にしたわけです。
舞台上にはその受け皿としての水があってそこに水滴が落ちている。そして砂、たとえば砂が終わりの物質だとすれば、始まりと終わりが並存している空間で行われる作品というふうに考えています。
Q. 30年にわたって一貫して変わらない姿勢で作品を作り続けてこられたわけなんですが、今後の展開として、テーマやアイディアについて何か考えていることがありましたらお伺いできればと思います。
A. 去年(2005年)の12月に新作を出した後なので今はニュートラルな時期です。これからまた2年という期間中で、自分の中で気になっていること、前回の作品でやり残したこと、未解決なことなどが、ゆっくりと自分の中で立ち上がってくるのを待つのがいいと思っています。そういうものが素材となって、ゆっくりであるけれど可変していくというのが山海塾のやり方であり、これまでもそうだったし、これからもそうだと思っています。
また、個人の仕事として、オペラの演出のオファーが入っていますが。2008年へ向けてということになりますが、それと山海塾の新作と平行しながら進めていこうと思っています。
(2006年09月02日開催 10周年記念事業 山海塾「遥か彼方からの―ひびき」 えずこホールラウンジにて)
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